2021年4月19日月曜日

C.P.の歴史の中の出来事 - 第10回:バトシアニー王女

ポール・メルローズのシリーズ第10弾「Februs 41」より


 アイリーン・バトシアニー王女という名前は、ほとんどの人には馴染みのない名前ですが、彼女はラヨス・バトシアニー伯爵の美しい妻で、彼は、ハンガリー統治者としての治世は短く、最終的に処刑され、悲劇的な最後を迎えてしまいました。

 未亡人となった王女は、そのような運命を免れましたが、それにもかかわらず、特別な形で公衆の面前に非常に屈辱的な醜態を晒すことになりました。


 19世紀半ば、ヨーロッパは強大な帝国によって支配されていましたが、その中でも最大のものは、ドイツ、チェコ共和国、スロバキア、クロアチア、セルビア、ハンガリーの一部を含むオーストリア帝国でした。

 1848年は革命の年として有名ですが、これらの従属国の多くが時を同じくして、自己政府による統治をオーストリア帝国に要求し始めました。

 これらの国の最前線にいたのがハンガリーでした。

 この問題は政治的に非常に複雑であったため、指導者には不眠不休での多くの課題の解決を求められました。

 しかし、アイリーン・バトシアニーがどのようにして屈辱的な運命に至ったのかを理解するためには、いくつかの人物による出来事を押さえておく必要があります。


 その最初の人物はルイ・コスースです。彼はオーストリアの支配に反対する指導者で、1848年、反乱の波が押し寄せる中、ハンガリー人に一定の自治を実行する機会を得ました。

 オーストリアは最初は怒りと憤りにより抵抗を示しましたが、実際にウィーンで革命が勃発すると、ハンガリーが帝国から脱退することを恐れたオーストリアは降伏した。

 歓喜の中、オーストリア反対派の一人であるラヨス・バトシアニー伯爵が、半独立した新しいハンガリーの暫定統治者に任命され、国民が納得できる政府を作ろうとしましたが、結果的にはバトシアニー伯爵をトップとする擬似君主制となってしまいました。

 そのため、バトシアニー伯爵は王子の称号を得、誇り高く美しい妻バトシアニーを王女となりました。

 アイリーン・バトシアニーは、反乱が起きた当時、40代前半の黒髪の美人で、ハンガリー軍に従軍していた3人の息子を含む5人の子供の母でした。

 ハンガリーは限定的な自治政府を成立させましたが、すぐに問題を抱えることになりました。

 ハンガリーの国内にはクロアチアがあり、クロアチアの人々も自治を求めていたからです。

 オーストリアの「奴隷」になることを嫌っていたクロアチア人は、それにも増してハンガリーでの多数派でもある「マギア人」の支配下に置かれることを更に嫌っていました。そしてすぐにオーストリアの支配者とのハンガリー奪還の交渉を開始しました。

 オーストリアが熱狂的な反ハンガリー主義者で多くの武勇伝を持つジョセフ・イェラチッチ大佐をクロアチアの新しい総監に任命しました。

 ジョセフ・イェラチッチ大佐が政権に就くと、彼は1848年4月19日にクロアチアとハンガリーの関係を断ち切り、その時点からすぐにハンガリーの新政権は窮地に追い込まれました。

 5月10日、ハンガリーの少数派スロバキア人がハンガリー国内での独立を求め、その5日後には、ルーマニア人がハンガリーとの新同盟を破棄しました。

 バトシアニー王子は、新たな自治国家があらゆる方面から問題に直面していることを知り、オーストリアがクロアチアの指導者であるイェラチッチとの関係を否定するならば、友好関係について交渉を行う余地があるとしました。

 バトシアニー王子とその妻アイリーン・バトシアニーは、イェラチッチ総監とその取り巻き達を軽蔑し、その事実を公言していたため、クロアチアの指導者は激怒していました。

 その後に起こりうる事を考えると、バトシアニー一家のこの判断は誤りであり、一時、バトシアニーの問題に同情的であったオーストリア人も、ハンガリーの政権を弱体化するために、密かにイェラチッチを支援することとしました。

 オーストリアの支援を確信したヨセフ・イェラチッチのクロアチア軍はセルビア軍と共に1848年6月にハンガリーを攻撃し、あっという間に南ハンガリーの大部分を占領しました。

 不運にもバトシアニー王子は退き、ハンガリー政府はオーストリアとの再属国になる妥協を試みましたが、成立せず、バトシアニー王子の辞任が新しいハンガリー政府とオーストリア王政との間の開戦の引き金ともなってしまいました。


 バトシアニー王子の辞任にもかかわらず、勇敢で決意の固いハンガリー人は最初は戦場で目覚ましい戦果を収め、早い段階でオーストリアとの立場を逆転し、オーストリア皇帝フェルディナンドの退位を促し、甥のフランシス・ヨーゼフを即位させるよう働きかけるまでになりました。

 しかし、程なく、数に勝るオーストラリア軍は、再編成され、新たに攻撃を開始し、2週間でハンガリーの首都ペストを奪取してしまいました。


 オーストリアへの敵対行為に対する制裁は、それまで動向を見守っていたロシア皇帝ニコライ1世によっても行われました。ロシアとすれば、仮にハンガリーが復権すれば、ロシア帝国内で反乱が起こるかもしれないと考えたニコライ1世は、ハンガリーの復権を抑止するためにハンガリー人を鎮圧することが決定しました。


 1849年6月、2つのロシア軍がハンガリーに進駐し、総勢50万人近くの兵士がハンガリーの体制の鎮圧に乗り出しました。

 ロシアの軍勢はあまりに多く、ハンガリー政府は亡命を余儀なくされ、1849年8月13日、ロシアの司令官パスキエヴィッチ元帥は皇帝に対して、「ハンガリーは陛下の足によって踏み躙られました。 」と報告しました。


 ハンガリーを襲ったロシアの介入により、国は軍事政権下に置かれ、ハンガリーの上級将校13人が公開処刑されました。

 家族と一緒に国外に逃れることができなかったバトシアニー王子は、喉を切って自殺しようとしましたが、家臣により止められ、未遂に終わりました。

 彼は捕らえられ、1849年10月6日に銃殺されました。

 占領軍はその後、ハンガリーの国旗を引き裂いたり、建物を破壊したりして暴行を繰り返しました。

 その後、約100人が処刑されましたが、その中には未亡人のアイリーン・バトシアニー王女も含まれていました。


 当初はハンガリーの独立を支持していた暴徒のムードは、屈辱的な敗北の余波を受けて険悪なものとなり、その怒りの多くは亡命した政府とパトシアニー家に向けられました。

 世間の雰囲気に後押しされて、1849年11月のある週末、ロシアの将校たちは、未亡人のアイリーン・バトシアニーに屈辱的な罰を与えることにしました。

 十数人のロシア兵がパトシアニー家の宮殿に押し入り、メイドと一緒にいるアイリーン王女を発見しました。

 怯えたアイリーン王女は、「自分の傲慢さと、息子たちが反乱軍としてハンガリー軍と戦ったことを理由に、祖国をこのような悲惨な状況に陥れた責任は自分にあり、罰を受けるべきだ」と、ロシア兵に退去を要求しました。


 抗議の声を上げたにもかかわらず、アイリーン・バトシアニー王女は将校たちに宮殿から連れ出され、ペスト市場の広場に連れて行かれました。

 するとすぐに群衆がアイリーンへの屈辱を見るために集まってきました。

 恐怖に怯えたアイリーンは台に乗せられ、頭と手は浮浪者や売春婦などを公共の場で罰する時に使われる枷に固定されました。

 羞恥の虜となったアイリーン・バトシアニーは、自分が嘲笑していたクロアチア人指導者イェラチッチが、クロアチア人将校たちと一緒に壇上に座り、彼女への屈辱を見物しているのを見て、さらに愕然としました。

 群衆の歓声に応え、ロシア人将校はアイリーンのドレスとペチコートを捲り上げて肩に固定し、レースのドロワーズを引き裂いて裸の下半身を露出させました。すると群衆の歓声は更に大きいものになりました。

 ロシア人の一人は、太い革ベルトを外して、泣き叫ぶアイリーン・バトシアニーの裸の尻を打ってから、別の兵士に渡して、罰を続けました。

 罰は、すべての将校が、長時間打ち据えられ緋色に焼け焦げたアイリーンの尻にベルト振り続けました。


 アイリーン・バトシアニー王女が苦悶の叫び声をあげ、尻が腫れ上がったことが十分に確認されると、ロシア人は彼女を赦し、解放しました。

 そしてアイリーン・バトシアニーに、イェラチッチの手にキスをさせ、過去の不義理を謝罪させられた後、イェラチッチにドロワーズを引き上げさせ、ドレスを整えさせるという屈辱を与えました。


 可哀想なアイリーン・バトシアニーは、衣類を整えた後、腐った果物や野菜をぶつけてくる暴徒の野次の中を、屈辱を受けながら、徒歩で家に帰らなければなりませんでした。


 やがて1850年7月、軍の独裁政権は文民政権に変わり、残虐性は緩和されましたが、ハンガリーの独立の種は慎重に取り除かれていきました。

これには、バトシアニ一家を田舎に分散させ、より質素で貧しい生活を送らせることも含まれていました。

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2021年4月15日木曜日

C.P.の歴史における瞬間 - 第11回:ジャンヌ・デュ・バリーとキャロライン・ド・ローゼン

ポール・メルローズのシリーズ第11弾「Februs 42」より


 後のデュ・バリー伯爵夫人は、1743年8月19日、フランスのヴォークールで、アニー・ベクというパティシエとの間の婚外子として、ジャンヌ・ベクという名で生まれました。

 ジャンヌの父親は、ヴォーベルニエのジャン・バティスト・ゴーマンという名前の男で、地元の修道院で修道女の精神的なアドバイザーを務めていた修道士でした。アニー・ベクの恋人であったとも言われています。


 父である修道士の影響で、ジャンヌはパリのサン・アウレ修道院で良質な教育を受けていました。

 15歳で学校を中退したジャンヌは、裕福で影響力のある人々の下で女中として働き、いつの間にかパリの貴族にも近づくことができるようになっていました。

 1763年、ジャン・デュ・バリーという悪名高い極道者と出会い、やがて彼の愛人となりました。

 ジャン・デュ・バリーはパリでは「下劣なジャン」と呼ばれ、ジャンヌ・ベクも含めて愛人を売春させて働かせるのが常であったため、警察から頻繁に事情聴取を受けていました。

 友人に書かれた日記によると、ジャンヌは自分が陥った堕落した生活を嫌悪し、もっと立派になりたいと思い始めていたようです。


 1768年、ジャンヌ・べクは宮廷で、ルイ15世の目に留まり、すぐに彼女を愛人にしようとしました。

 当時の慣習では、ゴシップを避けるために、愛人は既婚女性でなければならないと定められており、夫と一緒に宮廷に入り、夫は国王が自分の妻と情事を結んでいる間、辛抱強く待っていなければなりませんでした。

 このようにして宮廷礼儀が守られていたのです。

 こうしてジャンヌ・ベクは、ルイ15世の多くの愛人の一人となるために、彼女の愛人であるジャンの弟であるギョーム・バリーと結婚しました。

 このようにして彼女の将来は確実なものとなり、彼女は影響力のある女性となリました。


 ジャンヌ・デュ・バリーは芸術家のパトロンとなり、芸術家や知識人の後見人として知られるようになりました。

 彼女は魅力的で妖艶な女性で、強い情熱と忍耐力を持っていました。

 気さくで明るい性格のため、沢山の友人ができましたが、嫉妬心も強く、人の不幸を楽しむ面もあったため、友人を失うことも多かったと言われています。


 デュ・バリー伯爵夫人が宮廷で得た多くの人脈の中には、プロヴァンス伯爵夫人と10代のキャロライン侯爵夫人が含まれていました。

 二人の伯爵夫人の間には、せいぜい友好的な関係しかありませんでしたが、ジャンヌ・デュ・バリーは、初対面の時に18歳か19歳だったプロヴァンス伯爵夫人の若くて可愛い侍女にすぐに愛着を持ちました。

 若い侯爵夫人は、快活なジャンヌ・デュ・バリーと一緒にいることに喜びを感じていました。

 そのため、二人は親しくなり、若いキャロラインはいつもデュ・バリーの社交行事のゲストリストに名を連ねていました。

 若い侯爵夫人は友人たちに、自分はジャンヌ・デュ・バリーのお気に入りの一人であり、いつも近くにいて、きらびやかな舞踏会や社交の場には大抵一緒に出席していたと自慢していました。

 人間の嫉妬や独占欲を考えれば、このような牧歌的な存在がいつまでも続くわけもなく、プロヴァンス伯爵夫人は、キャロライン侯爵夫人とジャンヌ・デュ・バリーとの友情の芽生えに怒りを覚え、ついに二人に対して抗議するようになりました。

 プロヴァンス伯爵夫人は、キャロライン侯爵夫人に対して、「デュ・バリーとの親密な友情をやめるべきだ」と、はっきりと伝えました。

 プロヴァンス伯爵夫人の怒りを畏れた侯爵夫人は、以降、デュ・バリーの社交会の招待を無視し、愛人と一緒に宮殿に行かざるを得なくなると、ジャンヌ・デュ・バリーに冷たく当たるようになりました。


 ジャンヌはキャロライン侯爵夫人の態度に激怒し、ルイ15世に自分が受けた軽蔑の念を訴えました。

 国王は、おそらく冗談のつもりで仰ったのだと思われますが、侯爵夫人の「子供のような気まぐれな性格は大変大人気ない。」とし、「一度、笞の味見をさせてはどうか。」と提案しました。

 そして「子供であるキャロラインの若い尻が笞の味見をするのは当然のことだろう。」と笑っていたとされています。


 これを真に受け、怒ったジャンヌ・デュ・バリーは彼の言葉を鵜呑みにしました。

 彼女は若い侯爵夫人にメッセージを送り、翌朝、国王から宮廷での彼女の将来に関わる重要事柄について、秘密裏に伝えなければならないので、訪問できないかと尋ねました。そしてそのことは、彼女のためになるだろうとも付け加えましました。

 キャロラインは、その伝聞を真摯に受け止め、興味を持ち、愛人であるプロヴァンス伯爵夫人に言い訳をして、馬車に乗ってパリのデュ・バリーの豪華な館に向かいました。


 その間、ジャンヌ・デュ・バリーは王に、もし国王が秘密裏に到着して、ジャンヌ・デュ・バリーの寝室のカーテンの後ろに隠れていれば、面白いものが見られるかもしれないと伝えていました。国王は不思議には思いましたが、愛するジャンヌ・デュ・バリーの楽しそうな遊びの誘いに乗り、カーテンの後ろに身を隠しました。


 下の階では、ジャンヌと若い侯爵夫人が仲睦まじく朝食を共にすることで、明らかに和解が成立しているように見えました。

 食事が終わると、ジャンヌ・デュ・バリーは若い客人に、ジャンヌの寝室でキャロライン侯爵夫人の将来の宮廷での役割に関する重要な書類を渡すと伝えました。

 何も疑わず、キャロライン侯爵夫人はジャンヌ・デュ・バリー伯爵夫人の後を追って寝室に入っていくと、ドアは突然閉められ、4人の粗暴な侍女たちが若い侯爵夫人に掴みかかりました。  

 キャロライン侯爵夫人は、叫びながらベッドの上に引き上げられ、うつ伏せに投げ出されました。

 キャロライン侯爵夫人が恐怖と恥ずかしさに悲鳴を上げていると、ジャンヌ・デュ・バリーの一言で、彼女の長いスカートとペチコートが背中の高い位置まで捲り上げられ、お尻が丸見えになってしまいました。

 ジャンヌは彼女に、これはデュ・バリー伯爵夫人である自分をバカにした代償であり、今日の経験を経て、二度とそのようなことはしないようにと怒りを込めて言いました。


 カーテンの後ろに隠れていた国王の歓喜の目の前で、2人のメイドがもがき苦しむキャロラインを抱きかかえている間に、他の2人のメイドが樺の枝笞を手に取り、若い侯爵夫人の裸の尻を、皮膚が破れて血が太ももに流れるまで、ひどく打ちました。

 ジャンヌ・デュ・バリーは笞打ちを止めさせ、キャロライン侯爵夫人に起き上がるように命令しました。

 彼女はやっとのことで起き上がると、憤って泣きながら、馬車に乗って家に逃げ帰りました。

 キャロライン侯爵夫人は、愛人であるプロヴァンス伯爵夫人に事の顛末を話せば、彼女の約束を破ったことがバレ、さらに困ったことになるだろうと考え、直接国王にジャンヌ・デュ・バリーの扱いについての不満を手紙で伝えることにしました。

 彼女には同情的な返事が返ってきて、ジャンヌ・デュ・バリーを尋問すると言いたいところだが、そのためには、キャロライン自身が法廷に出て尻を捲って証拠を見せない限り、国王としても何もできないだろうとありました。

 このような屈辱的な提案に侯爵夫人は、自分の訴えが聞き入れられなかったことを悟り、次に何をすべきかを友人たちに助言を求めました。


 例外なく全員が、ジャンヌ・デュ・バリーと仲直りすべきであり、国王の寵愛を受ける伯爵夫人に寄り添い、伯爵夫人の強大な力に敬意を持って接するべきだと助言し、キャロラインはその助言に従いました。

 キャロラインはジャンヌに手紙を書き、過去の不義理を謝罪し、自分への懲らしめは報いに値するものではなかったと告白しました。


 自分の行動が成功したことを喜んだジャンヌは、若い友人の再会を喜び、プロヴァンス伯爵夫人が不愉快な思いをすることのないように、この友情を秘密裏に続けていくことに同意しました。

 1774年にルイ15世が亡くなると、ジャンヌ・デュ・バリーのフランスでの権威は失墜しました。

 しかし、長い間、権力を持つことのできなかった彼女は、フランスの新勢力であるブリサック公爵に求愛し、彼の長年の愛人となったのです。


 1789年、フランス革命が始まり、ジャンヌは宝石類を安全な銀行に保管するために、ロンドンに何度も足を運ぶようになりました。そして、彼女はイギリスにいる間、亡命した多くの貴族と接触しました。

 しかし、この行為は非常に危険であり、最終的には彼女自身を破滅させ、死に至らしめました。

 革命政府は彼女の行動を裏切り者とみなし、1793年、ジャンヌ・デュ・バリーは逮捕され、革命に反対する活動をした罪で起訴されました。


 彼女は死刑を宣告され、1793128日、50歳になったジャンヌ・デュ・バリー伯爵夫人はギロチンにかけられました。ギロチンに向かう途中、護送車の中で何度も倒れ、壇上から群衆に向かって「なぜ私を傷つけようとするの?」と壇上から群衆に向かって叫び、最終的には非常にヒステリックになり、彼女を抑えるのが困難になりました。

 彼女が最後に口にした言葉は、おそらく最も有名なもので、「アンコール・アン・モーメント、ムッシュ・ル・ブルロー、アン・プチ・モーメント」(「もうちょっとだけ、処刑人さん、ちょっとだけ」)と言った後、刃がその役目を果たしました。


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2021年4月12日月曜日

C.P.の歴史の中の出来事 - 第8回:カトリーヌ・メディチ家のカトリーヌ・ドゥ・メディチ

ポール・メルローズのシリーズ第8弾、Februs 39より


 カトリーヌ・ドゥ・メディチは1519年にオーヴェルニュで生まれ、フランス王室とは母方の祖母を介して親戚関係にありました。

 赤ん坊の時に両親を失いましたが、わずか13歳でフランス王フランシス1世の次男アンリと結婚したことで、彼女の運勢は一変しました。

 そこには、カトリーヌの叔父に当たる教皇クレメント7世の影響があり、国王フランシス1世はこの結婚によって、教皇の後ろ盾を得、キリスト教世界に大きな影響力を持つことを期待する考えがあり、この結婚は多くの政治的な陰謀に包まれていました。


 しかし、結婚式の翌年に教皇が亡くなると、フランシスの息子との結婚に関する策略はすべて無駄になり、カトリーヌは「使い捨て」のような存在になりつつありました。

 アンリが王になった後も10年間は無名のままでした。彼女が受けた屈辱は強烈で、夫の美しい愛人であるダイアン オブ ポワチエの気まぐれに従わなければならず、尊敬と権威を保つことすら制限されていました。

 この経験は、後の彼女の人生における態度に多くの影響を与えたと言われています。


 1559年にアンリが亡くなり、息子のフランシス2世が王位に就くと、状況は一変し、彼女は非常に強い権力を持つようになりました。

 彼はスコットランドのメアリー・スチュアートの夫となり、母であるカトリーヌを崇拝していたため、カトリーヌは国事における大きな政治的影響力を持つことができました。


 カトリーヌの二度目の「治世」である「独裁」は1560年に息子のフランシスが亡くなった時から始まりました。

 次男のシャルル9世がまだ10歳だったため、カトリーヌは摂政となり、事実上の君主となったのです。

 エリザベス1世政権下のプロテスタントであるイングランド、フィリップ2世政権下のカトリックであるスペイン、そして国家の中の国家を要求するユグノー派の人々との交渉・取引において、カトリーヌは優れた政治的手腕と外交を展開しました。

 カトリーヌは、ユグノー派、プロテスタント、カトリックの間を激しく往来しながら、困難な調整をこなしていきました。

 シャルル9世派が多数派を占めるようになると、カトリーヌは国王の母親である自分にもっと権力を集中すべきだと言い出しましたが、一方で微妙な関係にあった同盟は崩壊していきました。

 ユグノー派に傾倒したシャルル9世がスペインとの間に問題を起こすことを恐れたカトリーヌは、そのような事態から息子を守るため、ユグノー派を代表する政治家の一人を殺害する命令を下しました。


 悲劇的なことに、シャルル9世は1574年、わずか25歳で亡くなり、三男のアンジュー公アンリがフランス王となりました。

 アンジュー公アンリは二人の兄弟よりもはるかに自立していたため、カトリーヌの影響力は急速に低下していきました。

 この頃、カトリーヌの側近派の男性との交際が公に記録されています。

 また、1574年末、カトリーヌを先頭にアヴィニョンを行進した鞭打ち宗派「黒い同胞団」との出会いは、息子を含む多くの人々を悩ませました。


 権力を失ったカトリーヌの私生活での行動は、新たに接触し始めたこの鞭打ち宗派の思想を反映するようになっていました。

 宮殿内では、カトリーヌが不注意な女官を折檻により懲らしめるようになったことや、あるメイドが王妃のドレスを着ようとしていたところを捕らえると、尻から血が出るほど白樺のロッドで鞭打ったという暗い話が広まりました。


 これは彼女の人生の後半における慣習となり、1週間のうちで、尻を鞭打たれないメイドや女官はほとんどいませんでした。

 汚れたベッドシーツ、部屋の隅の埃、朝食の出すタイミングなど、彼女の召使いの行動に少しでも欠点があれば、罰として、哀れなメイドや女官は裸にされ、鞭音を尻に響かされたのち、痛々しいほどに腫れ上がった尻を露出させたまま職務に戻されました。


 カトリーヌは、鞭打ちと体罰を、福音の宗教的価値を回復するための手段として、また必要な家庭内での躾として説き始めました。

 カトリーヌは息子を説得して、鞭打ち宗派を国内で影響力のある地位に回復させようと試みましたが、アンリは激怒してそれを受け入れませんでした。

 そこで彼女はことあるごとに、自分のメイドや女官を鞭打つことで心を満たしました。


 おそらくカトリーヌの過剰行為の中で最も悪名高いのは、4人の女官たちがカトリーヌのヒステリーな様子や次第に風変わりになっていく行動をからかっているとの噂をカトリーヌが耳にしたときのことです。

 当然、彼女は怒りが爆発させました。

 この4人は一般的な召使ではなく、貴族の女性であり、国王の母に仕えることが、富と影響力のある夫との縁組を待ち望んでいる娘たちでした。

 それゆえ、この一件は彼女たちにとって、耐え難い屈辱的な経験であったに違いありません。

 カトリーヌは、影響力のある貴族たちを集め夕食会を催し、そこに4人のその若い女官を呼び出しました。

 そこに招待された貴族の男性達は驚きを隠せんませんでした。

 なぜならば、4人の不幸な女性たちは腰から下を裸にされ、カトリーヌが彼女たちの行動を公に非難している間、客の前に尻を向けて立たされました。

 そして、集まった人々の前で、カトリーヌにより4人の若い女官たちはテーブルに腹這いにさせられ、悲鳴が会場中に響き渡るまで、カトリーヌ手によって白樺のロッドで尻を叩かれました。

 国王であるアンリ3世はこのことに嫌悪感を感じ、多くの賓客の前で行われたこの恥ずべき行為は二度と許されないことであると母親であるカトリーヌに警告しました。

 流石のカトリーヌも、このアンリ3世の警告には耳を傾けたようです。


 一方、アンリ3世の治世は堕落し、不評に陥っていました。

 彼には子供がおらず、年老いたカトリーヌの4人目の子供であるフランシス・ド・ヴァロワも1584年に亡くなりました。そしてフランスの将来をプロテスタントであるブルボン家のアンリに託してしまいました。

 目の前で、それまでの苦労が水の泡となって消えてしまったカトリーヌでしたが、それでも彼女は、ヘンリー3世を自らの判断ミスから救おうとするだけの政治的手腕を持っていました。

 伝統的な同盟関係を維持しようと必死になっていたカトリーヌは、ヘンリー3世が宿敵であったギーズ公を殺害したことを知り絶望しました。

 年老い、苦悩し、完全に幻滅したカトリーヌは、このニュースを聞いてからわずか13日後の1589年1月5日に亡くなりました。


 カトリーヌ・メディチは、妻であり、母であり、平和主義者であり、外交官であり、暴君であり、サディストでもあったとても魅力的な人物でした。

 表向きは聡明であると言われているカトリーヌ・メディチの治世を、後世の歴史家たちは、フランスの将来を構築する上で、その狡猾とも言える不謹慎な同盟関係により、実際には長期的な不安定さと不信感をフランスにもたらし、それを克服するのに長い時間をかけることになる切掛となったと結論付けています。


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2021年4月8日木曜日

C.P.の歴史に残る瞬間 第6回:ソフィア・リンゼイ夫人

ポール・メルローズのシリーズ第6弾「Februs 37」より

 1660年、苦しい内戦と長年にわたるオリバー・クロムウェルの政権下にあったのち、イングランドはチャールズ2世の凱旋により王政に復帰しました。
 多くの人が君主制の復活を喜ぶのも束の間、クロムウェル政権下における新王の父とその一派に対するクロムウェル政権下での過去の迫害への新王の報復を見て、喜びの雰囲気は一変しました。
 亡命時、新王はイングランドとスコットランド全体に対して、あらゆる宗教的活動を尊重することを約束していましたが、凱旋後すぐに一連の議会法に署名し、認可された祈祷書を崇拝するもの以外の宗教的な集会を禁止しました。
 イングランドとスコットランドの地下牢はすぐに溢れかえました。新王にとっての第一の敵は、反抗的な長老派スコットランド人であり、彼らの宗教的な反対意見は冷酷なまでに叩きのめされたのでした。

 国王の弟であるジェームズ・ヨーク公爵は非常に強い権力を持つようになり、多くの地域で恐れられていました。
 チャールズ2世の大使のような役割を数年間務めた後、ジェームズはスコットランドの領地を与えられ、王弟としてスコットランドの非公式な王の代理人に任命されました。
 スコットランド人は信仰心を守るために度重なる苦難に見舞われ、反乱を起こし、最終的にはモンマス公爵率いる軍隊にボスウェル橋で撃退されました。
 これを契機に、ヨーク公爵はスコットランドの反体制派に対する弾圧を強め、スコットランドにプロテスタント議会を設立し、同時にヨーク公爵がスコットランドでの全権力を維持することを保証しました体制を確立しました。

 新しいスコットランド議会では、一つ間違えば混乱を招くような宣誓が行われましたが、それは、全議員がプロテスタントへの組織的な信仰に忠誠を誓うことを確実にするためのものでした。
 その中の一人に長老派のアーガイル伯爵がいましたが、このような混乱乗じて、王室への忠誠心を保ちつつも、教会と国家に関する法律は変更できるとの宣誓を発表しました。
 このような状況の中で、この言葉は雄牛にとっては赤いボロ布のようなものであり、アーガイルは逮捕され、大反逆罪で起訴されました。
 伯爵はモントローズ侯爵(チャールズ・スチュアートの忠誠者)を陪審員長とする陪審員によって審理され、有罪となり絞首刑を言い渡されました。 
 この一件はアーガイルの一族にとって大いなる脅威となり、この後に待ち受ける不幸な運命を回避するためには、何らかの大胆な行動が必要になりました。
 伯爵が投獄されている間、伯爵に面会を許された者の一人に、伯爵の美しい娘であるソフィア・リンゼイ夫人がいました。彼女はバクルフ伯爵アレキサンダー・リンゼイの妻でした。
 アレキサンダー・リンゼイ自身は「軟派」の聖公会派として知られていたため、国王の代理人から信頼されていましたが、公にはしていないものの、妻の長老派としての見解を黙認していました。
 アレクサンダー・リンゼイの知らないうちに、伯爵家の中では非常に大胆な計画が練られていました。唯一の面会可能者であるソフィアは共のものを引き連れ、伯爵との面会に臨みました。彼女たちは余分な服を持って行き、数分間警備員の注意をそらした後、伯爵のベッドに毛布をかけて伯爵が眠っているように見せかけ、アーガイル伯爵はソフィアの側近の一員として逃げ出しました。この工作が発覚するのが遅かったため、伯爵は有力な友人たちと連絡を取り合い、オランダ行きの船に乗り、逃げることができました。

 この事件の工作を画策した主犯が逮捕されると、ソフィア・リンゼイ夫人もまた逮捕され、市民評議会で裁かれることになりました。
 彼女の無礼な行為に怒りを覚えた市民評議会は、この若い女の服を腰まで剥ぎ取り、荷車の後ろに縛り付け、エジンバラの街中で一日中鞭打つべきだとの判決を下しました。
 この判決にソフィア夫人の一族は愕然とし、特に夫はヨーク公爵との緊急協議を求め、減刑を必死に訴え、「もしこのような判決が下された場合、国王の支持者である私を含む一族全員が屈辱を受けることになる」と強調しました。
 するとヨーク公爵も同情的し、彼の主張に耳を傾け、アレクサンダー・リンゼイを安心させるため、別の私刑を与えることに代えることを同意しました。
 ヨーク公爵はアレクサンダー・リンゼイに、「お前の若い妻は、甘やかされた子供のように振る舞ったのだ。そのような若い妻には甘やかされた子供に相応しい罰を与えるべきだ。」と伝え、市民評議会とは別の判決を言い渡しました。

 1681年5月の朝、涙ぐむソフィア・リンゼイ夫人がエディンバラ城の懲罰房に連れて行かれると、そこには衛兵長と困惑している夫、そして必死になっている哀願する母親が待っていました。
 彼女は執行される罰を知っていたので、このような屈辱を許してほしいと夫に懇願しましたが、アレクサンダー・リンゼイは、「お前の軽率な行動でこのような目に遭うのだぞ。当初想定されていた刑に比べれば相当に軽いものになったのだ。感謝すべきところだ。」と、あからさまに妻の懇願跳ね付けました。
 衛兵長は、レディー・ソフィアを低いスツールの上に跪かせ、顔をカーペットに押し付けて、下半身を天高く突き出すよう命令しました。
 その姿勢をとった後、彼女のロングドレスとペチコートは捲り上げられ、肩のところに固定されて、彼女の尻の穴まで完全に露出させられました。
 衛兵長は、白樺の笞を手に取り、若いレディー・ソフィアの尻を徹底的に打ち据えました。それは30分にも及んだとのことです。
 いくつかの根拠のないレポートでも、彼女は豊満な尻を剥き出しにされ、白樺の笞で50打の罰が与えられたと記述されています。この経験は痛々しくて、深く恥ずかしいものだったに違いありませんが、確かに元のレポートよりも興味深いです。
 悲しいことに、アーガイル伯爵はスコットランドに密かに戻り、そこで逮捕され、もう一度裁判にかけられ、今度は処刑されてしまいました。

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2021年4月6日火曜日

C.P.の歴史の中の出来事 - 第7回:ボストン・クエーカーズ

ポール・メルローズのシリーズ第7弾「Februs 38」より


 イングランドから新世界への宗教的反体制派の移住が始まった当初から、カルヴァン派を中心とするピューリタンは、地上の神の国への賛辞として、厳格な神学、教会の長老、選出された奉行への従属の輝かしい例として、ボストンの街を建設し、発展させてきました。

 彼らは,真の信仰とは強い個人的な規律と服従によって表されるものだと考えていました。その後、1656年に最初のクエーカー教徒がマサチューセッツ州に入植し始め、多くの宣教師がボストンへとやって来ました。


 当初、ボストンにいるクエーカー教徒たちは、自分たちの好きなように礼拝したり、自分たちの信仰を広めたりすることを妨げる法律はありませんでした。

 しかし、内なる光、独立した信念、個人の良心というイデオロギーを持つクエーカー教徒が、既成の秩序を乱し、恐ろしい脅威になることを、すぐにカルヴァン派に宗徒たちは気付き出しました。

 このような宗教的規律のない、いわゆる「無政府状態」は、厳格なピューリタンの倫理観と完全にそぐわないものであり、すぐにコミュニティの指導者たちは、あらゆる手段を使ってクエーカー教徒を排除しようとしました。

 最初の「銃声」が発せられたのは、1656年7月にスワロー号という船がメアリー・フィッシャーとアン・オースティンという敬虔なクエーカー宣教師2人を乗せてボストン港に到着したときでした。

 彼女たちは上陸するとすぐに逮捕され、所持品はすべて没収されました。

 6人の男性判事の前で2人の女性は裸にされ、屈辱的な方法で魔女の証拠がないか調べられました。しかし何も見つからず、二人の女性はイギリスに送り返されましたが、市場ではクエーカー教徒のトラクト(小冊子)は、すべて燃やされました。


 クエーカー教徒への締め付けを強化する法律が急遽制定され、ボストンへの入植は違法となりました。

 この法律には、街に入ったクエーカー教徒全員を鞭打ちの刑に処し、彼らを輸送した船の船長には重い罰金を科すことが含まれていました。しかし、これらの法律は、より多くの勇敢なクエーカー教徒が信仰を広め、彼らの怒りを表すため、クエーカー教徒が街に殺到することを促しました。

 1659年には、3人のクエーカー教徒が自分たちの信仰の迫害に抗議するためにロードアイランドからマサチューセッツへとやってきました。2人は逮捕されて絞首刑になり、女性のメアリー・ダイアーは死を免れてロードアイランドに戻されました。

 この勇敢な、あるいは無鉄砲な女性は1年後に戻ってきて、「ボストンへの入植は神の御心だ」と訴え、今度は彼女も絞首刑に処されました。


 この事件は、地元の人々を侮辱し、恥辱を与え、いくつかの方針の再考を余儀なくさせたため、クエーカー教徒にとっては何よりも大きな変化となりました。

 それは、1662年に3人の若いイギリス人クエーカー教徒の女性がボストン近郊のドーバーの町に到着した時に明らかに現れました。そのクエーカー教徒は、アン・コールマン、メアリー・トンプキンス、アリス・アンブローズの3人です。

 彼女たちは、確立された信仰と個人の良心の制限に反対する説教をして、大混乱を招きました。

 最終的には、影響力のある教会の長老であるハテヴィル・ナターという人が、彼女たちを逮捕させるための請願書を議会に提出しました。

 請願書を受け取ったリチャード・ウォルドロン(Richard Waldron)という王室の判事は、ボストン地区内の11の町の巡査に、「この3人の若い女性を荷車の尻尾に縛り付け、腰の部分の服を剥ぎ取り、11の町の各町で裸の尻に馬の鞭で10打ずつ鞭を与えよ」との命令を出しました。

 彼女たちは、半裸で馬車の尻尾に縛られ上で、各町への強制行進をさせられました。加えて、冬の厳しい寒さの中、80マイル以上の旅を強いられました。

 そして、「合計110本の縞模様を尻に刻むように」という恐ろしい判決が下されました。


 凍えるような寒さの日、ドーバーでは、3人の若い女性が尻まで裸にされ、荷車の尻尾に縛られ、地元の人々が立って笑っている間を歩かされ、ひどく鞭打たれました。

 彼女たちはその後、2番目の町であるハンプトンまで牽引され、警官に引き渡されました。

 次の日の早朝、カートが市場に設置され、3人の女性は再び尻まで裸になるように命じられました。そのうちの二人は従ったが、アン・コールマンは勇敢に拒否しました。その結果、彼女は警官によって全裸にされ、群衆の見せ物にされ、再び服を着せる前に、裸で鞭打ちを受けることを余儀なくされました。

 その後、3人の女性は、3回目の過酷な罰を受けるためソールズベリーに牽引されました。

 しかし、ソールズベリーでは、天の恵みが彼女たちを助けてくれました。地元の医師で判事でもあったウィリアム・ベアフット氏は、勇敢にも王室の命令を覆し、罰は不完全なものであると宣言したのです。

 彼は自ら3人の女性の傷ついた体に服を着せ、メイン州と川を渡ったところにある安全な場所に避難させました。

 もし刑の全量が執行されていたら、女性たちは死んでいた可能性があります。このように、この貧しい女性たちに向けられた公開の屈辱は、ボストンの有力者たちに不快感を与え、クエーカー教徒への迫害を緩和する圧力が強まり始めました。

 やがて1663年、この3人の勇敢な若い女性たちはドーバーに戻り、クエーカー教会を設立しました。

 1670年までに、マサチューセッツ州ドーバーの市民の3分の1がクエーカー教徒となったため、この若い女性たちと先人たちの犠牲はついに実を結びました。

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2021年4月3日土曜日

ベラの新しい籐鞭(お仕置き雑誌への投稿風)

 親愛なる皆様

 今日は、私が、また長女のジョアンナのために新しい籐鞭を買ったことをご報告します。
 そして不幸にも、その新しい籐鞭で、ジョアンナのお尻を叩くことになったんです。その新しい鞭は、何週間か前にお手紙した鞭とは別物であることがわかったのよ。

 私は、本当は、新し籐鞭を買ったはいいものの、ジョアンナにはこの籐鞭はもう必要ないと考え始めていたところだったわ。

 ところが、ある晩のこと、ジョアンナは夜更かしをしていたので、私が注意すると、彼女は生意気な言い訳をしてきたんです。だから私は、最近ジョアンナへのお仕置きが遠のいていたことに気付いて、そろそろ鞭の味を思い出させてやらなきゃと思いついたんです。

 でもこの時には、ジョアンナに新しい鞭を買ってきたことをまだ打ち明けていなかったのよ。
 私が新しい鞭を持って、「今日はこれよ!」と長い間ジョアンナを叩いてきた鞭と違う籐鞭を彼女に見せたとき、ジョアンナはとっても驚いていたわ。

 私はいつものように彼女を2階へ連れて行ったとき、彼女は新しい籐鞭を見て何も喋れなかったわ。
 彼女を自分の部屋に行かせ、数分後に私が部屋に行ったとき、彼女はベッドの端っこに座って、避けることのできないお仕置きを大人しく待ってたわ。
 私は何も言わなかったけど、彼女は自分がすべきことを知っていたわ。
 彼女はベッドにうつ伏せになって、服を上げ、私が籐鞭を置いて、振り返った時には、もう準備ができていたわ。
 私はいつもの我が家のやり方のとおり、うつ伏せの彼女の後ろ髪をグィ!っと引っ張って、彼女の耳元に「お仕置きよ!お尻を出しなさい!」と怒鳴りつけたの。

 彼女は、素直にパンツのゴムを両手で引き下げたわ。そして彼女の白くてスレンダーなお尻を私の前に丸出しにしたの。そのお尻はこれから私の手に握られている新しい籐鞭によって幾筋もの鞭跡がつけられる運命に晒されているのよ。
 私は厳しいとは思ったけど、最近お仕置きが遠かったことと、これをジョアンナへの最後のお仕置きにしようと思い「半ダースよ!」と彼女に告げたの。
 最初の1打を彼女のお尻に当てたとき、彼女は「オゥ!」と叫んだわ。
 私は、この籐鞭がどれだけ厳しいものか知っていたわ。ジョアンナは打たれるたびに、お尻を振って痛みから逃れようとしたけど、何の役にも立たなかったわ。
 私が最後の1打を打った時、彼女のお尻には6本の綺麗な鞭跡が刻まれていたわ。でも彼女は泣くこともなく、立ち上がったの。
 そして、彼女はその恰好のいいお尻を摩りながら、私がしっかり握っている籐鞭を見て、しかめっ面をしながら口ごもって言ったわ「生意気言ってごめんさい。よくわかったわママ。私はもうその籐鞭はこりごりよ。それは今までのとは比べ物にならないくらい、ひどく痛いんですもの。」

 それから数か月が経つけど、ジョアンナは決して過ちを犯していないです。
 私は、ジョアンナには、もう鞭は必要ないとなお一層考えるようになったわ。
 それと同時にこの籐鞭の効果を改めて実感したの。
 彼女はお姉ちゃん。歳を重ねるごとにお仕置きを与えることは難しくなる。そしてそうやってお仕置きを卒業していくことは自然なことだと思うの。

 話は変わって次女のエディスの話よ。彼女はまだ日常的にお仕置きを受けているわ。
 エディスの場合は、ヤンチャでいつも生意気な態度をとっては、私に鞭でお尻を叩かれているの。彼女もまた、「どうせいつもの鞭でお尻を叩かれるだろうな」ってぐらいに考えているんだと思うわ。
 
 また、私は、エディスにはジョアンナよりももっと鞭を与えてもいいと考えているの。
 なぜなら彼女たち二人は、全く体格が違うんですもの。
 ジョアンナは、背が高くスレンダーで、お尻も小さくて、私が見ても惚れ惚れするような恰好のいいお尻をしているわ。学校でお仕置きされて帰ってくるとかわいそうに思えてくるくらいよ。
 それに比べてヤンチャなエディスは歳の割にホントに肉感的で、よく発育しているの。お尻も大きくて、胸なんて私のよりも張ってるのよ。
 エディスはいつも私やジョアンナに学校のお友達(お転婆の悪ガキたち)からふざけて「『巨乳のエディス様』って呼ばれてるのよ(笑)」って自慢するのよ。
 だから私はエディスの大きなお尻をパン!と叩いて言ってやるのよ。「お前はジョアンナよりも立派な尻も持ってるんだから、その分ジョアンナよりもたくさんお仕置きしてやるから覚悟しなね!」って。

 彼女たちの父親が生きていたときは、娘たちのお仕置きは彼の仕事だったわ。
 私はいまやっているように籐鞭や革鞭で娘たちをお仕置きするなんて考えなかったわ。でも今は、鞭の有効性、必要性がよく分かるようになったわ。
 今回、私が購入した籐鞭はそんなに長くはないけれど、握りが付いた立派な籐鞭よ。
 私が以前お手紙したものと比較するととても厳しいもので、前のよりも柔軟でしっかりお尻に食い込むわ。

 私が今回それを購入したのは、私がその鞭を経験済みだからなの。なぜならそれは、私が女学生時代に学校でいただいていた鞭と同じものなのよ。娘たちから話を聞くと、今、学校で使われている鞭は、私が経験したお仕置きと大きく違っていたの。
 私の学生時代にされたお仕置きは、いつも校長先生からいただいていたわ。彼女は背が高くて、腕が長くて、その彼女から裸のお尻にいただくお仕置きは非常に有効的だっとことを思い出したの。だから私はそれと同じものを購入したってわけ。

 ジョアンナやエディスたちが学校でいただいている鞭は違うけどそれなりの効果はあると思うわ、でも、私が経験したものはそれよりももっと効果があったと考えているの。
 時代は違ってもお転婆娘たちのお尻に変わりはないんですもの。だからより効果のある鞭を今回選んだの。

 ジョアンナもエディスもこの新しい鞭の効果にきっと気付いてくれるはずよ。

ベラ


追伸:また私の手紙を選んでくださってありがとうございます。たくさんの読者の方々のお手紙をいつも楽しく拝読しております。お互い娘たちには手を焼いているんだぁって共感してしまいます。また、娘たちがなにかしでかしたらお便りしますね。(どうか大人しくなってほしいです。)

2021年4月2日金曜日

C.P.の歴史の中の出来事 - 第4回:ローズ・ケラー
ポール・メルローズのシリーズ第4弾「Februs 35」より
 パリのヴィクトワール広場にあるリトルファーザーズ教会の外に一人の女性が立って物乞いをしていました。彼女の名前はローズ・ケラー。綿紡ぎの仕事を失って以降、毎日このように物乞いをする日々を過ごしてました。
 彼女はストラスブール出身で、幸せな結婚生活を送っていましたが、夫の早すぎる死で生活の糧を失い、36歳の若さでローズは恥ずかしながら物乞いの生活を余儀なくされていました。
 もっとも、1768年のパリでは、生活の糧を失った女性にはほとんど選択肢はなく、ローズはその中でも最も不名誉とまでは言えない選択肢を選んでいたと思います。
 ローズがこの悲しい儀式をどのくらいの期間続けていたかは誰にもわかりませんが、そのうち病気となり、最終的には寒さと飢えによる死が彼女を襲う運命は限りなく間近に差し迫っていました。
 しかし、それは、ある運命的な日の訪れにより、ローズと他の女性との間で大きな違いを生むことになりました。

 その日は1768年4月3日のイースター・サンデー。施しを乞う哀れな女性に近づいた男がいました。その男の名はドナティアン・アルフォンス・フランソワ、サド侯爵。
 彼は、通りすがりの者が小銭を彼女に渡し、彼女が感謝の気持ちを込めて握りしめているのを、しばらくの間、見守っていました。
 サド公爵は、彼女に対して、「自分の田舎のコテージまでついてきてくれるならば、2リーヴルを渡そう。」と持ち掛けました。2リーヴルと言えば大金です。
 ローズ・ケラーも馬鹿ではありません。このような大金のために自分が何をしなければならないかをすぐに察知しました。
 憤慨した彼女は、物乞いはしているが、自分は「そんな女ではない」と抗議した上で、最初はサド公爵の提案を断りました。
 するとサド公爵は、ローズに対して「パリに一時的に住むことになり、身の回りの世話をしてくれる家政婦を必要としており、彼女のこの困窮した状況から、脱するための方法の一つである。」と説明しました。
 結局、彼女は、サド公爵の家政婦になれば住み込みで働け、住処と食事が保証されると説得され、この魅惑的な提案に納得しさえすれば、それまでの絶望的な状況からの解放が望めると説得されてしまいました。

 サド公爵の馬車は二人をパリ郊外のアルカイユにある彼のコテージへ向かいました。
 ローズは新しい生活環境に驚き、自分の幸運を信じられずにいました。
 サド公爵が戻ってきて朝食の部屋に呼ばれ、中に入ると、サド公爵は、ドアをロックし、ローズに「全て服を脱ぐように」と命令しました。
 ローズは騙された事にショックを受け、売春婦ではないことを改めて主張し、服を脱ぐことを拒否しました。
 するとサド公爵は、「命令に従わなければ、お前を殺し、庭にを埋めてやると」脅しました。
 恐怖におびえたローズは、服を脱ぎ始めたのですが、慎み深い彼女は、シミーズだけは脱ぐことを拒否しました。
 激怒したサド公爵は、シミーズを引きちぎり、怯えた裸のローズをベッドの上に押し倒し、鞭で彼女の背中と尻を打ち始めました。
 後にローズが証言では、鞭打ちの間に、サド公爵は溶かしたワックスのようなものを彼女の草履に注ぎました。
 ローズが大声で叫べば叫ぶほど、サド公爵の興奮による震えとうめき声は激しくなり、彼がオーガズムに達するまで、厳しい鞭打ちは続きました。
 サド公爵はローズ・ケラーを寝室に閉じ込め、「夜にはパリに連れて帰ってやる」と言っていましたが、ショックを受け怯えていたローズには信じられるず、自分は殺されるのではないかと恐れていました。
 一人になったローズは、シーツを千切りにして結び目をつけ、寝室の窓から逃げ出しました。

 彼女はその後、サド公爵の付き人に見つかったものの、近くの村まで逃げおうせました。
 廷吏長の妻であるランベール夫人はその話を聞き、ローズ・ケラーの傷を診察しましたが、ローズの心は体よりも深く傷つき、結局、涙を流して部屋に引きこもってしまいました。
 次の日、イースターの月曜日、告発は裁判官によって聴取され、ローズ・ケラーが非常に信頼できる証言者であることが認められました。

 サド公爵の家族は、公爵が深刻な問題を抱えていることを確信し、急いで街の廷吏の家で療養中のローズと接見しましたが、この「質素な」乞食の女性は、試練にもかかわらず、健全で冷静な判断ができると考え、和解の申し入れを行いました。彼女は告訴を取り下げに3000リーヴル(約9000ポンド相当)を要求しました。サド家はその要求に唖然としましたが、最終的にローズ・ケラーは2600リーヴルという本当に大きな金額支払って和解しました。
 ローズ・ケラーの人生は一夜にして一変し、彼女が死ぬかもしれないと恐れていた悪夢のような出会いは、実際に彼女の夢を超えた富をもたらし、新しい人生のチャンスと新しい夫との出会いと結婚の機会を与えてくれたのです。

 サド公爵にとっては、この事件は他の事件と関連づけられ、彼を快く思わない彼の義理の母親に、「サドは永久に収監されるべきだ」と国王に進言するまでに至りました。
 快楽主義的な自由主義者であったサド公爵は、最終的に捕まるまでの間、週末に何人もの幼い少女たちと性行為や鞭打ち行為を含む乱交パーティに参加するなど、近隣の人々の道徳心を傷つける行為を繰り返した。
 避けられない事態から逃れようとする試みが長引いた後、サド公爵は逮捕され、刑務所に送られましたが、革命軍によって釈放されるまでの人生の大半を過ごすことになります。
 その内容は、文学評論家の間では、かつては否定されていた残酷で醜悪なポルノ作品というレッテルを越えた、より深いものとして再評価されています。


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あるレディーズ・コンパニオンの思い出(前編) さあ、今回から新しいシリーズの始まりです。 今回のテーマは「レディーズ・コンパニオン」です。 「レディーズ・コンパニオン」なんて聞き馴染みのないテーマですよね。 簡単に言うとお金持ちのご婦人と金で雇われた年下の介添人といったところでし...