C.P.の歴史の中の出来事 - 第8回:カトリーヌ・メディチ家のカトリーヌ・ドゥ・メディチ
ポール・メルローズのシリーズ第8弾、Februs 39より
カトリーヌ・ドゥ・メディチは1519年にオーヴェルニュで生まれ、フランス王室とは母方の祖母を介して親戚関係にありました。
赤ん坊の時に両親を失いましたが、わずか13歳でフランス王フランシス1世の次男アンリと結婚したことで、彼女の運勢は一変しました。
そこには、カトリーヌの叔父に当たる教皇クレメント7世の影響があり、国王フランシス1世はこの結婚によって、教皇の後ろ盾を得、キリスト教世界に大きな影響力を持つことを期待する考えがあり、この結婚は多くの政治的な陰謀に包まれていました。
しかし、結婚式の翌年に教皇が亡くなると、フランシスの息子との結婚に関する策略はすべて無駄になり、カトリーヌは「使い捨て」のような存在になりつつありました。
アンリが王になった後も10年間は無名のままでした。彼女が受けた屈辱は強烈で、夫の美しい愛人であるダイアン オブ ポワチエの気まぐれに従わなければならず、尊敬と権威を保つことすら制限されていました。
この経験は、後の彼女の人生における態度に多くの影響を与えたと言われています。
1559年にアンリが亡くなり、息子のフランシス2世が王位に就くと、状況は一変し、彼女は非常に強い権力を持つようになりました。
彼はスコットランドのメアリー・スチュアートの夫となり、母であるカトリーヌを崇拝していたため、カトリーヌは国事における大きな政治的影響力を持つことができました。
カトリーヌの二度目の「治世」である「独裁」は1560年に息子のフランシスが亡くなった時から始まりました。
次男のシャルル9世がまだ10歳だったため、カトリーヌは摂政となり、事実上の君主となったのです。
エリザベス1世政権下のプロテスタントであるイングランド、フィリップ2世政権下のカトリックであるスペイン、そして国家の中の国家を要求するユグノー派の人々との交渉・取引において、カトリーヌは優れた政治的手腕と外交を展開しました。
カトリーヌは、ユグノー派、プロテスタント、カトリックの間を激しく往来しながら、困難な調整をこなしていきました。
シャルル9世派が多数派を占めるようになると、カトリーヌは国王の母親である自分にもっと権力を集中すべきだと言い出しましたが、一方で微妙な関係にあった同盟は崩壊していきました。
ユグノー派に傾倒したシャルル9世がスペインとの間に問題を起こすことを恐れたカトリーヌは、そのような事態から息子を守るため、ユグノー派を代表する政治家の一人を殺害する命令を下しました。
悲劇的なことに、シャルル9世は1574年、わずか25歳で亡くなり、三男のアンジュー公アンリがフランス王となりました。
アンジュー公アンリは二人の兄弟よりもはるかに自立していたため、カトリーヌの影響力は急速に低下していきました。
この頃、カトリーヌの側近派の男性との交際が公に記録されています。
また、1574年末、カトリーヌを先頭にアヴィニョンを行進した鞭打ち宗派「黒い同胞団」との出会いは、息子を含む多くの人々を悩ませました。
権力を失ったカトリーヌの私生活での行動は、新たに接触し始めたこの鞭打ち宗派の思想を反映するようになっていました。
宮殿内では、カトリーヌが不注意な女官を折檻により懲らしめるようになったことや、あるメイドが王妃のドレスを着ようとしていたところを捕らえると、尻から血が出るほど白樺のロッドで鞭打ったという暗い話が広まりました。
これは彼女の人生の後半における慣習となり、1週間のうちで、尻を鞭打たれないメイドや女官はほとんどいませんでした。
汚れたベッドシーツ、部屋の隅の埃、朝食の出すタイミングなど、彼女の召使いの行動に少しでも欠点があれば、罰として、哀れなメイドや女官は裸にされ、鞭音を尻に響かされたのち、痛々しいほどに腫れ上がった尻を露出させたまま職務に戻されました。
カトリーヌは、鞭打ちと体罰を、福音の宗教的価値を回復するための手段として、また必要な家庭内での躾として説き始めました。
カトリーヌは息子を説得して、鞭打ち宗派を国内で影響力のある地位に回復させようと試みましたが、アンリは激怒してそれを受け入れませんでした。
そこで彼女はことあるごとに、自分のメイドや女官を鞭打つことで心を満たしました。
おそらくカトリーヌの過剰行為の中で最も悪名高いのは、4人の女官たちがカトリーヌのヒステリーな様子や次第に風変わりになっていく行動をからかっているとの噂をカトリーヌが耳にしたときのことです。
当然、彼女は怒りが爆発させました。
この4人は一般的な召使ではなく、貴族の女性であり、国王の母に仕えることが、富と影響力のある夫との縁組を待ち望んでいる娘たちでした。
それゆえ、この一件は彼女たちにとって、耐え難い屈辱的な経験であったに違いありません。
カトリーヌは、影響力のある貴族たちを集め夕食会を催し、そこに4人のその若い女官を呼び出しました。
そこに招待された貴族の男性達は驚きを隠せんませんでした。
なぜならば、4人の不幸な女性たちは腰から下を裸にされ、カトリーヌが彼女たちの行動を公に非難している間、客の前に尻を向けて立たされました。
そして、集まった人々の前で、カトリーヌにより4人の若い女官たちはテーブルに腹這いにさせられ、悲鳴が会場中に響き渡るまで、カトリーヌ手によって白樺のロッドで尻を叩かれました。
国王であるアンリ3世はこのことに嫌悪感を感じ、多くの賓客の前で行われたこの恥ずべき行為は二度と許されないことであると母親であるカトリーヌに警告しました。
流石のカトリーヌも、このアンリ3世の警告には耳を傾けたようです。
一方、アンリ3世の治世は堕落し、不評に陥っていました。
彼には子供がおらず、年老いたカトリーヌの4人目の子供であるフランシス・ド・ヴァロワも1584年に亡くなりました。そしてフランスの将来をプロテスタントであるブルボン家のアンリに託してしまいました。
目の前で、それまでの苦労が水の泡となって消えてしまったカトリーヌでしたが、それでも彼女は、ヘンリー3世を自らの判断ミスから救おうとするだけの政治的手腕を持っていました。
伝統的な同盟関係を維持しようと必死になっていたカトリーヌは、ヘンリー3世が宿敵であったギーズ公を殺害したことを知り絶望しました。
年老い、苦悩し、完全に幻滅したカトリーヌは、このニュースを聞いてからわずか13日後の1589年1月5日に亡くなりました。
カトリーヌ・メディチは、妻であり、母であり、平和主義者であり、外交官であり、暴君であり、サディストでもあったとても魅力的な人物でした。
表向きは聡明であると言われているカトリーヌ・メディチの治世を、後世の歴史家たちは、フランスの将来を構築する上で、その狡猾とも言える不謹慎な同盟関係により、実際には長期的な不安定さと不信感をフランスにもたらし、それを克服するのに長い時間をかけることになる切掛となったと結論付けています。
spanking magazen storise から脚色翻訳
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