C.P.の歴史の中の出来事 - 第10回:バトシアニー王女
ポール・メルローズのシリーズ第10弾「Februs 41」より
アイリーン・バトシアニー王女という名前は、ほとんどの人には馴染みのない名前ですが、彼女はラヨス・バトシアニー伯爵の美しい妻で、彼は、ハンガリー統治者としての治世は短く、最終的に処刑され、悲劇的な最後を迎えてしまいました。
未亡人となった王女は、そのような運命を免れましたが、それにもかかわらず、特別な形で公衆の面前に非常に屈辱的な醜態を晒すことになりました。
19世紀半ば、ヨーロッパは強大な帝国によって支配されていましたが、その中でも最大のものは、ドイツ、チェコ共和国、スロバキア、クロアチア、セルビア、ハンガリーの一部を含むオーストリア帝国でした。
1848年は革命の年として有名ですが、これらの従属国の多くが時を同じくして、自己政府による統治をオーストリア帝国に要求し始めました。
これらの国の最前線にいたのがハンガリーでした。
この問題は政治的に非常に複雑であったため、指導者には不眠不休での多くの課題の解決を求められました。
しかし、アイリーン・バトシアニーがどのようにして屈辱的な運命に至ったのかを理解するためには、いくつかの人物による出来事を押さえておく必要があります。
その最初の人物はルイ・コスースです。彼はオーストリアの支配に反対する指導者で、1848年、反乱の波が押し寄せる中、ハンガリー人に一定の自治を実行する機会を得ました。
オーストリアは最初は怒りと憤りにより抵抗を示しましたが、実際にウィーンで革命が勃発すると、ハンガリーが帝国から脱退することを恐れたオーストリアは降伏した。
歓喜の中、オーストリア反対派の一人であるラヨス・バトシアニー伯爵が、半独立した新しいハンガリーの暫定統治者に任命され、国民が納得できる政府を作ろうとしましたが、結果的にはバトシアニー伯爵をトップとする擬似君主制となってしまいました。
そのため、バトシアニー伯爵は王子の称号を得、誇り高く美しい妻バトシアニーを王女となりました。
アイリーン・バトシアニーは、反乱が起きた当時、40代前半の黒髪の美人で、ハンガリー軍に従軍していた3人の息子を含む5人の子供の母でした。
ハンガリーは限定的な自治政府を成立させましたが、すぐに問題を抱えることになりました。
ハンガリーの国内にはクロアチアがあり、クロアチアの人々も自治を求めていたからです。
オーストリアの「奴隷」になることを嫌っていたクロアチア人は、それにも増してハンガリーでの多数派でもある「マギア人」の支配下に置かれることを更に嫌っていました。そしてすぐにオーストリアの支配者とのハンガリー奪還の交渉を開始しました。
オーストリアが熱狂的な反ハンガリー主義者で多くの武勇伝を持つジョセフ・イェラチッチ大佐をクロアチアの新しい総監に任命しました。
ジョセフ・イェラチッチ大佐が政権に就くと、彼は1848年4月19日にクロアチアとハンガリーの関係を断ち切り、その時点からすぐにハンガリーの新政権は窮地に追い込まれました。
5月10日、ハンガリーの少数派スロバキア人がハンガリー国内での独立を求め、その5日後には、ルーマニア人がハンガリーとの新同盟を破棄しました。
バトシアニー王子は、新たな自治国家があらゆる方面から問題に直面していることを知り、オーストリアがクロアチアの指導者であるイェラチッチとの関係を否定するならば、友好関係について交渉を行う余地があるとしました。
バトシアニー王子とその妻アイリーン・バトシアニーは、イェラチッチ総監とその取り巻き達を軽蔑し、その事実を公言していたため、クロアチアの指導者は激怒していました。
その後に起こりうる事を考えると、バトシアニー一家のこの判断は誤りであり、一時、バトシアニーの問題に同情的であったオーストリア人も、ハンガリーの政権を弱体化するために、密かにイェラチッチを支援することとしました。
オーストリアの支援を確信したヨセフ・イェラチッチのクロアチア軍はセルビア軍と共に1848年6月にハンガリーを攻撃し、あっという間に南ハンガリーの大部分を占領しました。
不運にもバトシアニー王子は退き、ハンガリー政府はオーストリアとの再属国になる妥協を試みましたが、成立せず、バトシアニー王子の辞任が新しいハンガリー政府とオーストリア王政との間の開戦の引き金ともなってしまいました。
バトシアニー王子の辞任にもかかわらず、勇敢で決意の固いハンガリー人は最初は戦場で目覚ましい戦果を収め、早い段階でオーストリアとの立場を逆転し、オーストリア皇帝フェルディナンドの退位を促し、甥のフランシス・ヨーゼフを即位させるよう働きかけるまでになりました。
しかし、程なく、数に勝るオーストラリア軍は、再編成され、新たに攻撃を開始し、2週間でハンガリーの首都ペストを奪取してしまいました。
オーストリアへの敵対行為に対する制裁は、それまで動向を見守っていたロシア皇帝ニコライ1世によっても行われました。ロシアとすれば、仮にハンガリーが復権すれば、ロシア帝国内で反乱が起こるかもしれないと考えたニコライ1世は、ハンガリーの復権を抑止するためにハンガリー人を鎮圧することが決定しました。
1849年6月、2つのロシア軍がハンガリーに進駐し、総勢50万人近くの兵士がハンガリーの体制の鎮圧に乗り出しました。
ロシアの軍勢はあまりに多く、ハンガリー政府は亡命を余儀なくされ、1849年8月13日、ロシアの司令官パスキエヴィッチ元帥は皇帝に対して、「ハンガリーは陛下の足によって踏み躙られました。 」と報告しました。
ハンガリーを襲ったロシアの介入により、国は軍事政権下に置かれ、ハンガリーの上級将校13人が公開処刑されました。
家族と一緒に国外に逃れることができなかったバトシアニー王子は、喉を切って自殺しようとしましたが、家臣により止められ、未遂に終わりました。
彼は捕らえられ、1849年10月6日に銃殺されました。
占領軍はその後、ハンガリーの国旗を引き裂いたり、建物を破壊したりして暴行を繰り返しました。
その後、約100人が処刑されましたが、その中には未亡人のアイリーン・バトシアニー王女も含まれていました。
当初はハンガリーの独立を支持していた暴徒のムードは、屈辱的な敗北の余波を受けて険悪なものとなり、その怒りの多くは亡命した政府とパトシアニー家に向けられました。
世間の雰囲気に後押しされて、1849年11月のある週末、ロシアの将校たちは、未亡人のアイリーン・バトシアニーに屈辱的な罰を与えることにしました。
十数人のロシア兵がパトシアニー家の宮殿に押し入り、メイドと一緒にいるアイリーン王女を発見しました。
怯えたアイリーン王女は、「自分の傲慢さと、息子たちが反乱軍としてハンガリー軍と戦ったことを理由に、祖国をこのような悲惨な状況に陥れた責任は自分にあり、罰を受けるべきだ」と、ロシア兵に退去を要求しました。
抗議の声を上げたにもかかわらず、アイリーン・バトシアニー王女は将校たちに宮殿から連れ出され、ペスト市場の広場に連れて行かれました。
するとすぐに群衆がアイリーンへの屈辱を見るために集まってきました。
恐怖に怯えたアイリーンは台に乗せられ、頭と手は浮浪者や売春婦などを公共の場で罰する時に使われる枷に固定されました。
羞恥の虜となったアイリーン・バトシアニーは、自分が嘲笑していたクロアチア人指導者イェラチッチが、クロアチア人将校たちと一緒に壇上に座り、彼女への屈辱を見物しているのを見て、さらに愕然としました。
群衆の歓声に応え、ロシア人将校はアイリーンのドレスとペチコートを捲り上げて肩に固定し、レースのドロワーズを引き裂いて裸の下半身を露出させました。すると群衆の歓声は更に大きいものになりました。
ロシア人の一人は、太い革ベルトを外して、泣き叫ぶアイリーン・バトシアニーの裸の尻を打ってから、別の兵士に渡して、罰を続けました。
罰は、すべての将校が、長時間打ち据えられ緋色に焼け焦げたアイリーンの尻にベルト振り続けました。
アイリーン・バトシアニー王女が苦悶の叫び声をあげ、尻が腫れ上がったことが十分に確認されると、ロシア人は彼女を赦し、解放しました。
そしてアイリーン・バトシアニーに、イェラチッチの手にキスをさせ、過去の不義理を謝罪させられた後、イェラチッチにドロワーズを引き上げさせ、ドレスを整えさせるという屈辱を与えました。
可哀想なアイリーン・バトシアニーは、衣類を整えた後、腐った果物や野菜をぶつけてくる暴徒の野次の中を、屈辱を受けながら、徒歩で家に帰らなければなりませんでした。
やがて1850年7月、軍の独裁政権は文民政権に変わり、残虐性は緩和されましたが、ハンガリーの独立の種は慎重に取り除かれていきました。
これには、バトシアニ一家を田舎に分散させ、より質素で貧しい生活を送らせることも含まれていました。
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