2021年7月25日日曜日

マーカム・プロジェクトの時代のちょっと変わったお仕置き

マーカム・プロジェクトの時代のお仕置きについて記載されていた記事がありましたので、以下に掲載します。この時代に生まれたかったと思ってしまうのは読者諸氏も同じはず…

粗い訳で申し訳ありませんが拝読ください。


19世紀末から20世紀初頭にかけて、若い女性の躾には、家庭での体罰以外にも家庭教師や躾の専門家が採用した技術がありました。

1930年代に出版されたと思われる回想録から、ヴィクトリア朝時代の若い女性として、そして後に母親として経験談を語った女性による記事を抜粋してみました。


私がまだ17歳にもならない少女だった頃、父が亡くなり、私は母の手を煩わせるようになりました。

近所の友人ドーラと一緒にスクランピング(農作物や庭の作物を盗むこと)をして、リンゴやナシを売っていました。

お医者さんの庭にも忍び込んで、本当に悪ガキのような存在になっていたと思います。

学校の先生は何度も母にそのことを訴えましたが、母は私たちを叱責し、私を部屋に閉じ込めるだけでした。

そんなある日、叔母が訪ねてきて、「スクランピングは盗みだ」と大説教をされましたが、私ももういい年なので耳を貸すことはありませんでした。


私は若かったので気にも留めず、スクランピングを続けました。

確か梅も盗んでいたと思います。それで先生にまたお叱りを受けました。


母はついに堪忍袋の緒が切れ、祖母から教わった家訓を私に教えると言いました。

私は台所に連れて行かれ、母と料理人が何かをしている間、台所の隅に立たされました。

私は子供のように隅に立つのが嫌でしたが、母が私のことをかなり怒っていることを知り、やむなく従いました。

私は彼らが何をしているのか興味がありましたが、気にしていませんでした。

しかしそれはすぐにわかりました。母は私に目を向け、私のスカートを後ろで留めました。

私は恥ずかしいと抗議しましたが、そんなこと伝わるはずもありません。

母は私の下着を脱がせて、私のお尻を母と料理人とその娘がよく見えるように晒したのです。

そして、マスタードと酢を混ぜ合わせた冷たいペーストを、私のお尻に塗り始めました。

最初は恥ずかしいだけでしたが、すぐに効いてきて、皮膚が焼け、私が泣き出すまで放置されました。


私は1時間以上も立たされたので、良い子になると約束しました。

しかし、それだけでは終わらず、母は料理人の前で私を膝の上に乗せ、生のお尻を燃えるように激しく叩きました。

その後、私は二度とスクランピングに行くことはありませんでしたが、母は私が大人になって結婚するまで、この方法を何度も使っていました。


数年後、私も母となり、夫が戦争に行っていた時、娘二人が試練に直面しました。

二人とも学齢期を過ぎており、長女は私よりも大きかったので、いくらお仕置きをしても懲りませんでした。


私は母の家訓を思い出し、ある夜、娘たちが軍需工場の帰りに女の子たちと出かけて帰ってきたとき、私は娘たちにそれを教えてあげることになりました。

長女からは「もう大人の女だから」「妹がいるんだから」などと抗議されましたが、メイドを呼ぶと脅した後、すぐにシングルパンツに着替えさせ、キッチンテーブルの上にリネンを敷いて屈ませました。


20年も前に私がやってもらったように、彼女のお尻にコールドマスタードペーストを塗り、キッチンの壁に向かって1時間以上も立たせて焼いてやりました。

私は、彼女らの泣いている、あるいは煙っているお尻に同情することはできませんでしたが、私は彼女らよりもはるかに少ない費用で、同じようにひどい目にあっていたのですから。


私が二人のお尻を洗うのを許したとき、二人はとてもおとなしくなっていたので、私はブラシで二人のお尻を叩いてやりました。

柔らかくなった肉を叩くのは痛いと思いましたが、それはそれでいいのです。


その後、二人がいつも金のようにきれいだったとは言えませんが、マスタードとブラシのおかげでずっといい娘でいられました。

末っ子は戦争から帰ってきた男と結婚したが、必要とあらば、長女は30歳になるまでこの方法でお仕置きしてやりました。


家庭にあるスパイスを使ってお尻を叩く準備をする方法は、それだけではなく、もっと穏やかなものもありました。

1890年代の婦人雑誌では、鞭打ちの後の教訓として、「どうしようもない女の子の血の滲むお尻に、ペッパーオイルを徹底的に塗る」ことが推奨されていました。

罰を受けた女の子のお尻に「適切に準備された調合液が十分に塗られた」後、女の子は壁や隅に向かって立たされるべきであり、「逃げ出したり、乱暴に動いたりすることは決して許されない」とされていました。


さらにの記事では、マスタード浣腸は、「しっかりとした尻叩きの前に、粗暴な若い女を大人しくさせるために、最適なものだ」と書かれていました。

「毎回それで済んでいる」と。

この件についての詳細はこちら。




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もしよろしければご拝読ください。

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2021年7月15日木曜日

ビクトリア朝の家庭にもう一つの白樺の香り

先日掲載させていただいたマーカムプロジェクトに関する記事の中にありました。1870年の『Englishwoman's Domestic Magazine』からの抜粋紹介されていた記事を翻訳紹介いたします。


「私が両手を差し出すと、彼女は手首を紐で縛りました。そして私をベッドの足元に括り付け、顔を下にして寝かせました。彼女はとても静かに、慎重に、左手を私の腰に回し、空いた右手でスマートに丸出しのお尻に平手打ちを浴びせました。そして白樺の束に持ち替えると、勢いよく振り上げ、それが宙に舞う音が聞こえました。そして、それが降りてきて、これから何度も叩かれると思うと、その痛さに対する恐怖と恥を忘れて丸出しのお尻を振っている自分の姿への羞恥心が私を覆いました。」

これは、1868年からEDMで始まった、成人した娘を懲らしめるべきかどうかという長い議論の結論に近い部分に記載されい記述です。


次の奇妙な小話は、上記のものと並べて発見されたので、別の出版物のものかもしれません。

「先週の日曜日、姉のジェーンはママからかなりひどい鞭打ちを受けました。買い物で余ったお金を自分の手袋を買うのに使ってしまったのだから、当然と言えば当然なのですが…」

「彼女が罰せられたことや、その方法は、私たちにとって不思議なものではありませんでした。彼女はママに呼ばれて奥の応接室に連れて行かれました。そして下半身の服を脱がされて、むき出しのお尻を鞭でたっぷり打たれました。そして、午後になってもスカートを上げさせられた状態で、部屋の隅っこで懺悔するように立たされました。言っておきますが、これ自体は昔から行われてきたことではありません。私たち姉妹が立派な女性になってからのママのやり方です。」

「私が気になるのは、私たち二人がそのような扱いを受けるようになってから、もう2年が経過しているということです。私は今年で20歳、姉のジェーンは私より2歳年上の22歳です。二人とももう立派で大きなお尻をしているんですから、なおさら困ったことです。」

小説というには短すぎるし、手紙というには自己中心的すぎる。議論を巻き起こすために、示唆に富む散文として発表されたのかもしれません。




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もしよろしければご拝読ください。

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2021年7月11日日曜日

マーカム・プロジェクトについて

海外サイトにおいて「マーカム・プロジェクト」という過去の興味深い記事がありましたので掲載させていただきました。いくつか記事がありましたので、これから数回に分けてご紹介いたします。

マーカム・プロジェクトは、1880年代から20世紀初頭にかけて、プロの家庭教師であり教育者でもあったミス・エリザベス・マーカムによって開始されたようです。
彼女の目的は、家庭教師の養成と若い女性の教育における最良の実践を奨励することでした。
彼女は、16歳以上の若い女性や未婚の女性に対して、「いくら歳を重ねても、体罰を与えるべきだ」ということを提唱していたようです。
彼女の哲学は、女性がか弱い生き物ではないことを示し、平手、杖笞、白樺の枝などの「厳しい尻叩きの罰」は、「自分を高めたいと願うあらゆる社会的条件の女性」の規律と幸福のために不可欠であるというものでした。
問題は、1959年以前にマーカム・プロジェクトに言及したバイアスの掛かっていない記録がほとんどないことであり、すべてがデマであるか、当時の尻叩き雑誌に寄稿していた空想家たちが作ったものである可能性があるということです。
そのため、彼女の名前さえ、ビクトリア朝時代の鞭打ち小説のように聞こえてしまいます。
エリザベス・マーカムという人物は、世紀末頃の女子大学での体罰に関連して、成人(女性)の学生に杖笞や平手による尻叩きを提唱した別の教育者から言及されています。
しかし、これは同じ女性だったのか、それとも後のデマのきっかけとなったのか?
マーカム女史は、厳しい教育を受けたことが自分を育てたと感じていたようで、「家庭での躾」が行われる年齢を超えて「若い女性をお仕置きで躾直す」ことに大きな成功を収めたと主張しています。
彼女は、家庭教師になった後、自らも体罰を受けたと主張しており、さらに、家庭教師になるための訓練中に彼女の指導を受けた大人の女性にも、鉄の指示棒や杖笞で尻を打たれたと言っています。
マーカム・プロジェクトは、志を同じくする家庭教師やその他の人々のネットワークで、彼女たちの目的を達成するためのアカデミーのようなものを設立しようとしていた様子が窺えます。
当時、「Englishwoman's Domestic Magazine」などの出版物には、当時受け入れられていたと思われる家庭内での躾のための体罰についての様々なレポートが掲載されていましたが、それらの多くはでっち上げだったかもしれません。
ライバル誌からの引用では、
「成長した女性への尻叩きのお仕置きは自然豊かな立派な邸宅で行われており、バーチングを求められたときには義務を怠ってはならない。彼女たちは少年たちと同じように尻を笞打たれることを受け入れられるだろうし、周りの自然がより素晴らしいお仕置きを行える環境を提供してくれているので、おそらくこれ以上のことはないであろう。」と。
EDMへの通信者の一人はこう書いています。
「16歳から21歳までの女の子は、裸にされてオットマンに腹這いにさせられ、革紐や白樺の枝で叩かれ、できる限りの屈辱を与えられるべきだが、痛みが恥ずかしさに勝るまで叩かれるべきだ。」と。
これに対し、別の女性がこう書いています。
「確かに私の娘は17歳にして強情なところがありますが、裸の尻にスリッパを当てるだけで十分な効果が得られます。これに反発したり、他人の前でふざけてみせたりする場合は、尻叩きの前後に部屋の隅に立たせておくと治ることがあります。読者の方がおっしゃっているように、彼女を全裸にすることはありませんが、それはとても見苦しいことです。しかし、女性や親しい男性しかいない場合には、彼女の傲慢な鼻っ面をへし折るためにも、お仕置きされたお尻を丸出しにさせることがあります。」
また、若い妻や成人した娘の正しい扱い方について、自分と息子の娘婿に対する態度をこう述べています。
「義務と服従と規律があれば、お行儀の良い女の子になれます。上流階級の女性であっても、時には子供のように扱われ、膝に乗せられることもあるでしょう。彼女の権力の意識を失うことが不可欠なので、常に自分で罰の準備をしなければなりません。それを怠った場合、罰を与える側は、彼女の恥ずかしいという感情を高めるために、常に彼女のドロワーズを左右に開け広げたり、下げたりして、これから折檻をいただく尻をむき出しにしなければなりません。」
「目撃者については、反抗させないようにするための脅しとすることができます。しかし、この脅しを実行する場合は、スキャンダルにならないように立ち会う人に気を配る必要があります。礼儀正しく行われれば、その女性は恥ずかしさで一回りも二回りも小さくなることでしょう。」
ある女性は、姪のバーチングについて、「スカートを留めたり脱がせたりして下半身(特に「尻」)を露出させ、一日中召使の前でそのような格好にさせておくことが、彼女にとって大きな利益であり、躾ける者の満足につながる」と書いています。
また、ある学校の女教師は、「(おそらく「自虐」で)自分を甘やかしている女の子には、まず靴とシュミーズを脱がせることです。これから行われるお仕置きの光景が頭に思い浮かぶように放置された後、よく音の出るバーチで尻を叩くのがよいと考えています。」と述べています。
これが、エリザベス・マーカムが自分の意見を広めようとした文脈です。





寿あげるの翻訳作品など掲載しています。
もしよろしければご拝読ください。

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2021年7月1日木曜日

pixivFANBOXへの投稿のお知らせ

pixivFANBOXへ以下の2作品を投稿しましたのでお知らせします。

ご拝読のほどよろしくお願いします。

○ リジー・ベインズ① 〜1950年代のお尻を叩かれた妻の物語〜






○ 憧れの存在


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2021年6月19日土曜日

皆様、更新が滞りまして申し訳ありませんでした。最近始めたpixivへの投稿に気を取られておりました。
今後も時々に更新して参りますので、よろしくお願いします。

https://www.pixiv.net/users/67545902


成績と嘘


他のアジア人の子供たちと同様に、私の家庭でも学業が最も重要視されていました。

母は全科目95点以上という高い達成目標を設定し、私はすべての科目で最低でもそれを確保しなければなりませんでした。

数学と科学はより重要視され、母はそこでは満点を取るように私に言い聞かせました。


この最低限の達成目標は家庭教師にも伝えられていて、家庭教師は私がその目標を達成できるように助力する役割を担っていました。

私にはこれらの要求を満たす能力があり、しばしば満たしていました。

しかし、ある時、数学のテストで大失敗したことがありました。


その数学のテストのとき、出題範囲を勘違いして予習を怠ったことで、慌ててミスだらけの用紙を提出しました。


後日、答案を受け取ったとき、達成目標に達していないことを知りました。点数は87点だったので、成績にうるさい母は大変不満そうでした。

その日の夜、母は私の家庭教師に私の情けない成績を伝え、私をどうにかしてほしいと頼みました。


家庭教師は私のテストをよく分析し、私の答えに目を通しました。

彼女は定規を手に取り、私を自分の前に立たせました。

彼女は私に、「今回のテストは簡単なテストだったから、簡単に満点を取ることができたはずよ。ただ、あなたは多くのケアレスミスをしているわ。」と指摘しました。


そして家庭教師の先生は、私がこんなにひどい成績を取るのは珍しいと言い、テスト中に集中できなかったのは何か特別な理由があるはずだと主張しました。

その理由を正直に教えなさいというのです。


私は彼女の鋭い分析に驚かされましたが、私は嘘をつきました。

私は、テスト中の集中力は問題なく、「たまたま」いくつかのミスをしてしまっただけだと言いました。

先生は私の右手を引っ張り出し、掌を定規で2、3回強く叩きました。私は引き下がりましたが、先生は私のもう片方の手も引っ張り出し、同じように強く叩きました。


そして、「本当のことを言わないと、こうして掌を叩き続けるわよ」と一喝されました。

強く叩かれるので、手が真っ赤になってしまいました。

叩かれたことでショックを受けた私は、怖くなりました。私はすぐに先生に謝り、本当のことを話しました。


先生は数分間、学校でのテストへの取り組み方についてお説教をし、

「それじゃあこれからがお仕置きよ、成績が悪かったことについて尻を8回、最初から正直に話さなかったことについて足を6回叩きます。いいわね!」と宣言しました。


「まずは尻!」彼女は私を机の上に折り曲げて尻を突き出しました。

彼女はキツく尻を叩きました。

さらに、つま先立ちになるように命じられ、ふくらはぎを叩かれました。

痛くて痛くて、私はずっと泣きながら許しを請うていました。最後に先生は、私を尻を出したまま数分間壁に向かって跪かせ、そのあと慰めてくれました。


それ以来、私はテスト中に集中力を欠くことはなく、先生に嘘をつくこともありませんでした。


今私は大学生になりましたが、その時のお仕置きが忘れられずいます。




2021年4月19日月曜日

C.P.の歴史の中の出来事 - 第10回:バトシアニー王女

ポール・メルローズのシリーズ第10弾「Februs 41」より


 アイリーン・バトシアニー王女という名前は、ほとんどの人には馴染みのない名前ですが、彼女はラヨス・バトシアニー伯爵の美しい妻で、彼は、ハンガリー統治者としての治世は短く、最終的に処刑され、悲劇的な最後を迎えてしまいました。

 未亡人となった王女は、そのような運命を免れましたが、それにもかかわらず、特別な形で公衆の面前に非常に屈辱的な醜態を晒すことになりました。


 19世紀半ば、ヨーロッパは強大な帝国によって支配されていましたが、その中でも最大のものは、ドイツ、チェコ共和国、スロバキア、クロアチア、セルビア、ハンガリーの一部を含むオーストリア帝国でした。

 1848年は革命の年として有名ですが、これらの従属国の多くが時を同じくして、自己政府による統治をオーストリア帝国に要求し始めました。

 これらの国の最前線にいたのがハンガリーでした。

 この問題は政治的に非常に複雑であったため、指導者には不眠不休での多くの課題の解決を求められました。

 しかし、アイリーン・バトシアニーがどのようにして屈辱的な運命に至ったのかを理解するためには、いくつかの人物による出来事を押さえておく必要があります。


 その最初の人物はルイ・コスースです。彼はオーストリアの支配に反対する指導者で、1848年、反乱の波が押し寄せる中、ハンガリー人に一定の自治を実行する機会を得ました。

 オーストリアは最初は怒りと憤りにより抵抗を示しましたが、実際にウィーンで革命が勃発すると、ハンガリーが帝国から脱退することを恐れたオーストリアは降伏した。

 歓喜の中、オーストリア反対派の一人であるラヨス・バトシアニー伯爵が、半独立した新しいハンガリーの暫定統治者に任命され、国民が納得できる政府を作ろうとしましたが、結果的にはバトシアニー伯爵をトップとする擬似君主制となってしまいました。

 そのため、バトシアニー伯爵は王子の称号を得、誇り高く美しい妻バトシアニーを王女となりました。

 アイリーン・バトシアニーは、反乱が起きた当時、40代前半の黒髪の美人で、ハンガリー軍に従軍していた3人の息子を含む5人の子供の母でした。

 ハンガリーは限定的な自治政府を成立させましたが、すぐに問題を抱えることになりました。

 ハンガリーの国内にはクロアチアがあり、クロアチアの人々も自治を求めていたからです。

 オーストリアの「奴隷」になることを嫌っていたクロアチア人は、それにも増してハンガリーでの多数派でもある「マギア人」の支配下に置かれることを更に嫌っていました。そしてすぐにオーストリアの支配者とのハンガリー奪還の交渉を開始しました。

 オーストリアが熱狂的な反ハンガリー主義者で多くの武勇伝を持つジョセフ・イェラチッチ大佐をクロアチアの新しい総監に任命しました。

 ジョセフ・イェラチッチ大佐が政権に就くと、彼は1848年4月19日にクロアチアとハンガリーの関係を断ち切り、その時点からすぐにハンガリーの新政権は窮地に追い込まれました。

 5月10日、ハンガリーの少数派スロバキア人がハンガリー国内での独立を求め、その5日後には、ルーマニア人がハンガリーとの新同盟を破棄しました。

 バトシアニー王子は、新たな自治国家があらゆる方面から問題に直面していることを知り、オーストリアがクロアチアの指導者であるイェラチッチとの関係を否定するならば、友好関係について交渉を行う余地があるとしました。

 バトシアニー王子とその妻アイリーン・バトシアニーは、イェラチッチ総監とその取り巻き達を軽蔑し、その事実を公言していたため、クロアチアの指導者は激怒していました。

 その後に起こりうる事を考えると、バトシアニー一家のこの判断は誤りであり、一時、バトシアニーの問題に同情的であったオーストリア人も、ハンガリーの政権を弱体化するために、密かにイェラチッチを支援することとしました。

 オーストリアの支援を確信したヨセフ・イェラチッチのクロアチア軍はセルビア軍と共に1848年6月にハンガリーを攻撃し、あっという間に南ハンガリーの大部分を占領しました。

 不運にもバトシアニー王子は退き、ハンガリー政府はオーストリアとの再属国になる妥協を試みましたが、成立せず、バトシアニー王子の辞任が新しいハンガリー政府とオーストリア王政との間の開戦の引き金ともなってしまいました。


 バトシアニー王子の辞任にもかかわらず、勇敢で決意の固いハンガリー人は最初は戦場で目覚ましい戦果を収め、早い段階でオーストリアとの立場を逆転し、オーストリア皇帝フェルディナンドの退位を促し、甥のフランシス・ヨーゼフを即位させるよう働きかけるまでになりました。

 しかし、程なく、数に勝るオーストラリア軍は、再編成され、新たに攻撃を開始し、2週間でハンガリーの首都ペストを奪取してしまいました。


 オーストリアへの敵対行為に対する制裁は、それまで動向を見守っていたロシア皇帝ニコライ1世によっても行われました。ロシアとすれば、仮にハンガリーが復権すれば、ロシア帝国内で反乱が起こるかもしれないと考えたニコライ1世は、ハンガリーの復権を抑止するためにハンガリー人を鎮圧することが決定しました。


 1849年6月、2つのロシア軍がハンガリーに進駐し、総勢50万人近くの兵士がハンガリーの体制の鎮圧に乗り出しました。

 ロシアの軍勢はあまりに多く、ハンガリー政府は亡命を余儀なくされ、1849年8月13日、ロシアの司令官パスキエヴィッチ元帥は皇帝に対して、「ハンガリーは陛下の足によって踏み躙られました。 」と報告しました。


 ハンガリーを襲ったロシアの介入により、国は軍事政権下に置かれ、ハンガリーの上級将校13人が公開処刑されました。

 家族と一緒に国外に逃れることができなかったバトシアニー王子は、喉を切って自殺しようとしましたが、家臣により止められ、未遂に終わりました。

 彼は捕らえられ、1849年10月6日に銃殺されました。

 占領軍はその後、ハンガリーの国旗を引き裂いたり、建物を破壊したりして暴行を繰り返しました。

 その後、約100人が処刑されましたが、その中には未亡人のアイリーン・バトシアニー王女も含まれていました。


 当初はハンガリーの独立を支持していた暴徒のムードは、屈辱的な敗北の余波を受けて険悪なものとなり、その怒りの多くは亡命した政府とパトシアニー家に向けられました。

 世間の雰囲気に後押しされて、1849年11月のある週末、ロシアの将校たちは、未亡人のアイリーン・バトシアニーに屈辱的な罰を与えることにしました。

 十数人のロシア兵がパトシアニー家の宮殿に押し入り、メイドと一緒にいるアイリーン王女を発見しました。

 怯えたアイリーン王女は、「自分の傲慢さと、息子たちが反乱軍としてハンガリー軍と戦ったことを理由に、祖国をこのような悲惨な状況に陥れた責任は自分にあり、罰を受けるべきだ」と、ロシア兵に退去を要求しました。


 抗議の声を上げたにもかかわらず、アイリーン・バトシアニー王女は将校たちに宮殿から連れ出され、ペスト市場の広場に連れて行かれました。

 するとすぐに群衆がアイリーンへの屈辱を見るために集まってきました。

 恐怖に怯えたアイリーンは台に乗せられ、頭と手は浮浪者や売春婦などを公共の場で罰する時に使われる枷に固定されました。

 羞恥の虜となったアイリーン・バトシアニーは、自分が嘲笑していたクロアチア人指導者イェラチッチが、クロアチア人将校たちと一緒に壇上に座り、彼女への屈辱を見物しているのを見て、さらに愕然としました。

 群衆の歓声に応え、ロシア人将校はアイリーンのドレスとペチコートを捲り上げて肩に固定し、レースのドロワーズを引き裂いて裸の下半身を露出させました。すると群衆の歓声は更に大きいものになりました。

 ロシア人の一人は、太い革ベルトを外して、泣き叫ぶアイリーン・バトシアニーの裸の尻を打ってから、別の兵士に渡して、罰を続けました。

 罰は、すべての将校が、長時間打ち据えられ緋色に焼け焦げたアイリーンの尻にベルト振り続けました。


 アイリーン・バトシアニー王女が苦悶の叫び声をあげ、尻が腫れ上がったことが十分に確認されると、ロシア人は彼女を赦し、解放しました。

 そしてアイリーン・バトシアニーに、イェラチッチの手にキスをさせ、過去の不義理を謝罪させられた後、イェラチッチにドロワーズを引き上げさせ、ドレスを整えさせるという屈辱を与えました。


 可哀想なアイリーン・バトシアニーは、衣類を整えた後、腐った果物や野菜をぶつけてくる暴徒の野次の中を、屈辱を受けながら、徒歩で家に帰らなければなりませんでした。


 やがて1850年7月、軍の独裁政権は文民政権に変わり、残虐性は緩和されましたが、ハンガリーの独立の種は慎重に取り除かれていきました。

これには、バトシアニ一家を田舎に分散させ、より質素で貧しい生活を送らせることも含まれていました。

spanking magazen storise から脚色翻訳


http://spankingmagstories.blogspot.com




2021年4月15日木曜日

C.P.の歴史における瞬間 - 第11回:ジャンヌ・デュ・バリーとキャロライン・ド・ローゼン

ポール・メルローズのシリーズ第11弾「Februs 42」より


 後のデュ・バリー伯爵夫人は、1743年8月19日、フランスのヴォークールで、アニー・ベクというパティシエとの間の婚外子として、ジャンヌ・ベクという名で生まれました。

 ジャンヌの父親は、ヴォーベルニエのジャン・バティスト・ゴーマンという名前の男で、地元の修道院で修道女の精神的なアドバイザーを務めていた修道士でした。アニー・ベクの恋人であったとも言われています。


 父である修道士の影響で、ジャンヌはパリのサン・アウレ修道院で良質な教育を受けていました。

 15歳で学校を中退したジャンヌは、裕福で影響力のある人々の下で女中として働き、いつの間にかパリの貴族にも近づくことができるようになっていました。

 1763年、ジャン・デュ・バリーという悪名高い極道者と出会い、やがて彼の愛人となりました。

 ジャン・デュ・バリーはパリでは「下劣なジャン」と呼ばれ、ジャンヌ・ベクも含めて愛人を売春させて働かせるのが常であったため、警察から頻繁に事情聴取を受けていました。

 友人に書かれた日記によると、ジャンヌは自分が陥った堕落した生活を嫌悪し、もっと立派になりたいと思い始めていたようです。


 1768年、ジャンヌ・べクは宮廷で、ルイ15世の目に留まり、すぐに彼女を愛人にしようとしました。

 当時の慣習では、ゴシップを避けるために、愛人は既婚女性でなければならないと定められており、夫と一緒に宮廷に入り、夫は国王が自分の妻と情事を結んでいる間、辛抱強く待っていなければなりませんでした。

 このようにして宮廷礼儀が守られていたのです。

 こうしてジャンヌ・ベクは、ルイ15世の多くの愛人の一人となるために、彼女の愛人であるジャンの弟であるギョーム・バリーと結婚しました。

 このようにして彼女の将来は確実なものとなり、彼女は影響力のある女性となリました。


 ジャンヌ・デュ・バリーは芸術家のパトロンとなり、芸術家や知識人の後見人として知られるようになりました。

 彼女は魅力的で妖艶な女性で、強い情熱と忍耐力を持っていました。

 気さくで明るい性格のため、沢山の友人ができましたが、嫉妬心も強く、人の不幸を楽しむ面もあったため、友人を失うことも多かったと言われています。


 デュ・バリー伯爵夫人が宮廷で得た多くの人脈の中には、プロヴァンス伯爵夫人と10代のキャロライン侯爵夫人が含まれていました。

 二人の伯爵夫人の間には、せいぜい友好的な関係しかありませんでしたが、ジャンヌ・デュ・バリーは、初対面の時に18歳か19歳だったプロヴァンス伯爵夫人の若くて可愛い侍女にすぐに愛着を持ちました。

 若い侯爵夫人は、快活なジャンヌ・デュ・バリーと一緒にいることに喜びを感じていました。

 そのため、二人は親しくなり、若いキャロラインはいつもデュ・バリーの社交行事のゲストリストに名を連ねていました。

 若い侯爵夫人は友人たちに、自分はジャンヌ・デュ・バリーのお気に入りの一人であり、いつも近くにいて、きらびやかな舞踏会や社交の場には大抵一緒に出席していたと自慢していました。

 人間の嫉妬や独占欲を考えれば、このような牧歌的な存在がいつまでも続くわけもなく、プロヴァンス伯爵夫人は、キャロライン侯爵夫人とジャンヌ・デュ・バリーとの友情の芽生えに怒りを覚え、ついに二人に対して抗議するようになりました。

 プロヴァンス伯爵夫人は、キャロライン侯爵夫人に対して、「デュ・バリーとの親密な友情をやめるべきだ」と、はっきりと伝えました。

 プロヴァンス伯爵夫人の怒りを畏れた侯爵夫人は、以降、デュ・バリーの社交会の招待を無視し、愛人と一緒に宮殿に行かざるを得なくなると、ジャンヌ・デュ・バリーに冷たく当たるようになりました。


 ジャンヌはキャロライン侯爵夫人の態度に激怒し、ルイ15世に自分が受けた軽蔑の念を訴えました。

 国王は、おそらく冗談のつもりで仰ったのだと思われますが、侯爵夫人の「子供のような気まぐれな性格は大変大人気ない。」とし、「一度、笞の味見をさせてはどうか。」と提案しました。

 そして「子供であるキャロラインの若い尻が笞の味見をするのは当然のことだろう。」と笑っていたとされています。


 これを真に受け、怒ったジャンヌ・デュ・バリーは彼の言葉を鵜呑みにしました。

 彼女は若い侯爵夫人にメッセージを送り、翌朝、国王から宮廷での彼女の将来に関わる重要事柄について、秘密裏に伝えなければならないので、訪問できないかと尋ねました。そしてそのことは、彼女のためになるだろうとも付け加えましました。

 キャロラインは、その伝聞を真摯に受け止め、興味を持ち、愛人であるプロヴァンス伯爵夫人に言い訳をして、馬車に乗ってパリのデュ・バリーの豪華な館に向かいました。


 その間、ジャンヌ・デュ・バリーは王に、もし国王が秘密裏に到着して、ジャンヌ・デュ・バリーの寝室のカーテンの後ろに隠れていれば、面白いものが見られるかもしれないと伝えていました。国王は不思議には思いましたが、愛するジャンヌ・デュ・バリーの楽しそうな遊びの誘いに乗り、カーテンの後ろに身を隠しました。


 下の階では、ジャンヌと若い侯爵夫人が仲睦まじく朝食を共にすることで、明らかに和解が成立しているように見えました。

 食事が終わると、ジャンヌ・デュ・バリーは若い客人に、ジャンヌの寝室でキャロライン侯爵夫人の将来の宮廷での役割に関する重要な書類を渡すと伝えました。

 何も疑わず、キャロライン侯爵夫人はジャンヌ・デュ・バリー伯爵夫人の後を追って寝室に入っていくと、ドアは突然閉められ、4人の粗暴な侍女たちが若い侯爵夫人に掴みかかりました。  

 キャロライン侯爵夫人は、叫びながらベッドの上に引き上げられ、うつ伏せに投げ出されました。

 キャロライン侯爵夫人が恐怖と恥ずかしさに悲鳴を上げていると、ジャンヌ・デュ・バリーの一言で、彼女の長いスカートとペチコートが背中の高い位置まで捲り上げられ、お尻が丸見えになってしまいました。

 ジャンヌは彼女に、これはデュ・バリー伯爵夫人である自分をバカにした代償であり、今日の経験を経て、二度とそのようなことはしないようにと怒りを込めて言いました。


 カーテンの後ろに隠れていた国王の歓喜の目の前で、2人のメイドがもがき苦しむキャロラインを抱きかかえている間に、他の2人のメイドが樺の枝笞を手に取り、若い侯爵夫人の裸の尻を、皮膚が破れて血が太ももに流れるまで、ひどく打ちました。

 ジャンヌ・デュ・バリーは笞打ちを止めさせ、キャロライン侯爵夫人に起き上がるように命令しました。

 彼女はやっとのことで起き上がると、憤って泣きながら、馬車に乗って家に逃げ帰りました。

 キャロライン侯爵夫人は、愛人であるプロヴァンス伯爵夫人に事の顛末を話せば、彼女の約束を破ったことがバレ、さらに困ったことになるだろうと考え、直接国王にジャンヌ・デュ・バリーの扱いについての不満を手紙で伝えることにしました。

 彼女には同情的な返事が返ってきて、ジャンヌ・デュ・バリーを尋問すると言いたいところだが、そのためには、キャロライン自身が法廷に出て尻を捲って証拠を見せない限り、国王としても何もできないだろうとありました。

 このような屈辱的な提案に侯爵夫人は、自分の訴えが聞き入れられなかったことを悟り、次に何をすべきかを友人たちに助言を求めました。


 例外なく全員が、ジャンヌ・デュ・バリーと仲直りすべきであり、国王の寵愛を受ける伯爵夫人に寄り添い、伯爵夫人の強大な力に敬意を持って接するべきだと助言し、キャロラインはその助言に従いました。

 キャロラインはジャンヌに手紙を書き、過去の不義理を謝罪し、自分への懲らしめは報いに値するものではなかったと告白しました。


 自分の行動が成功したことを喜んだジャンヌは、若い友人の再会を喜び、プロヴァンス伯爵夫人が不愉快な思いをすることのないように、この友情を秘密裏に続けていくことに同意しました。

 1774年にルイ15世が亡くなると、ジャンヌ・デュ・バリーのフランスでの権威は失墜しました。

 しかし、長い間、権力を持つことのできなかった彼女は、フランスの新勢力であるブリサック公爵に求愛し、彼の長年の愛人となったのです。


 1789年、フランス革命が始まり、ジャンヌは宝石類を安全な銀行に保管するために、ロンドンに何度も足を運ぶようになりました。そして、彼女はイギリスにいる間、亡命した多くの貴族と接触しました。

 しかし、この行為は非常に危険であり、最終的には彼女自身を破滅させ、死に至らしめました。

 革命政府は彼女の行動を裏切り者とみなし、1793年、ジャンヌ・デュ・バリーは逮捕され、革命に反対する活動をした罪で起訴されました。


 彼女は死刑を宣告され、1793年12月8日、50歳になったジャンヌ・デュ・バリー伯爵夫人はギロチンにかけられました。ギロチンに向かう途中、護送車の中で何度も倒れ、壇上から群衆に向かって「なぜ私を傷つけようとするの?」と壇上から群衆に向かって叫び、最終的には非常にヒステリックになり、彼女を抑えるのが困難になりました。

 彼女が最後に口にした言葉は、おそらく最も有名なもので、「アンコール・アン・モーメント、ムッシュ・ル・ブルロー、アン・プチ・モーメント」(「もうちょっとだけ、処刑人さん、ちょっとだけ」)と言った後、刃がその役目を果たしました。


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