2021年11月12日金曜日

ザ・フラッパー 

第一次世界大戦後、女性はかつてないほどに自由になりましたが、彼女たちのその「ワイルド」な行動を誰もが認めているわけではありませんでした。

このような女性たちは「フラッパーズ」と呼ばれていました。

ここでは、百科事典に掲載されているフラッパーの定義を紹介します。


1920年代のフラッパーという言葉は、短いスカートを履き、髪を束ね、ジャズを聴き、当時の正しいとされていた行動を軽蔑していることを誇示する若い女性を意味していました。

フラッパーズは、過剰な化粧をし、酒を飲み、セックスをカジュアルに扱い、タバコを吸い、自動車を運転するなど、社会的・性的規範を無視した生意気な女性とみなされていました。

フラッパーズの起源は、第一次世界大戦後の自由主義、社会的・政治的混乱、大西洋間の文化交流の高まり、そしてアメリカのジャズ文化のヨーロッパへの輸出にあります。

アメリカでこの言葉とイメージが最初に登場したのは、1920年に公開されたフランシス・マリオン主演の人気映画「The Flapper」で、オリーブ・トーマスが主演しました。

トーマスは1917年にも同じような役で出演していたいましたが、この言葉が使われるようになったのは「The Flapper」からです。

彼女の最後の映画では、フラッパーのイメージが確立されました。

その後、クララ・ボウ、ルイーズ・ブルックス、コリーン・ムーア、ジョーン・クロフォードなどの女優たちが、同じイメージで活躍し、人気を博しました。


アメリカでは、禁酒法に対する人々の反感が、フラッパーの台頭の要因となりました。

合法的なサロンやキャバレーが閉鎖され、路地裏の酒場が盛んになり、人気を博したのです。

宗教的な理由で法律を遵守する禁酒運動と、実際にいたるところで酒が飲まれていることとの間に矛盾が生じ、権威を軽視する風潮が広がりました。

フラッパーの独立心は、1890年代のギブソンガールにも起源があるかもしれません。

戦前のスタイルは、フラッパーの個性とは似ても似つかぬものでしたが、彼女たちの独立心とフェミニズムが、30年後のフラッパーのヒントになったのかもしれません。


フェミニズム以前の時代に、気性が荒く反抗的なフラッパーは、北米や西欧の古い伝統的な価値観に直接挑戦するものでした。

家族向けの雑誌では、「フラッパーを気取る娘はお尻を叩かれるべきか?」といった記事が掲載されることも、全く珍しいことではありませんでした。


アル・カポネは、自分の娘がフラッパーになったらという質問に対して、「尻を革鞭で引っ叩いてやる!」と言っていたほどです。


これは、当時の多くの人の意見でした。


23歳のジェーン・ハリントンは、1928年の「ニューヨーカー」誌において、ジョーン・クロフォードが街中で自立した女の子でいられるのは、家に帰ってもヘアブラシを持った母親が待っていないからだと不満の記事を掲載しています。


「なぜなら、私が家に帰ると、親愛なるママが正義の剣のようにヘアブラシを突き出して、私の『お尻』を狙っているからです。私は今、クッションの上に座ってこのノートを書いています。」と彼女はこう付け加えました。

「ママに反抗しないわけではありませんが、前回のお仕置きのアザが残っているのに、さらに座り心地の悪さを追加されたら、せっかくの夜の街の楽しみが半減してしまいます。」


しかし、ジョーン・クロフォードもお仕置きとは無縁ではありませんでした。

若い頃の彼女は、反抗的なフラッパーの役を得意とし、愛に満ちた男性俳優に癒されていました。

「Forsaking All Others」では、彼女はクラーク・ゲーブルから1度ならず2度までもお仕置きを受けてます。

1度目は彼女を正気に戻すため、もう1度は彼女自身が謝罪のために要求したものです。


1926年、同じニューヨークに住むグラハム夫人は、「未婚の娘がフラッパーのような馬鹿げた格好をしていたら、お尻にヘアブラシが待っているのだから、お行儀よくしなければならないわ。」と強い意見を述べていました。


「先週、私の26歳の娘がミルクを持って帰ってきたとき、全く馬鹿げた格好をしていたわ。彼女の格好と言ったら短すぎるスカートを履いていて、足を曝け出していたのよ。その前の週には、同じような格好をしていた彼女の妹をこっぴどくお仕置きをしたばっかりだというのに、なんて分からず屋なのかしら。当然、その場でお仕置きしてやったわ。私の厳しい尻叩きを受ければ、彼女もあんな馬鹿げた格好はしなくなるはずよ。娘なんて者は結婚するまで、毎日尻をさすりながら、暖炉の上で食事を取ったらいいのよ。」


お仕置きを受けるのは未婚の娘だけではありませんでした。

1924年、メイン州に住むジャック・シーグローブは、「フラッパーのように振る舞っている。」という理由で妻を叱り、ニュースとなりました。

彼は妻の服装が気に入らなかったようで、自分の家の玄関先で妻の尻を叩き、近所の人たちが警察に通報したのです。

起訴はされず、地元の警察署長は「郡内のすべての男性がこのような態度をとれば、法を犯す者は減るだろう。」と納得していたそうです。


フラッパーがこのような反応を起こしたのは、アメリカだけではありませんでした。


1929年、イギリスのマンチェスターでは、チャールズ・B氏が地元の新聞に「最近のアメリカでは、スキャンダラスな服装や行動が流行っている。」と非難する投稿を行いました。


「私はこれまでに、3人の娘たちがおかしな行動をしたときには、尻を叩いたり、体を縛ったりして躾けてきました。先週も、私に逆らったことを後悔させるため、3人が代わる代わるキッチンテーブルの上に乗せられて、大きな裸の尻を叩かれたばかりです。人前での謙虚さ足りない場合には、マナーを守るように、その場で服の上から尻を叩いてやります。もちろん帰宅後の償いは言うまでもありませんが…」


また、1927年には、ベルリンの伝統的な家庭で、娘が街のナイトクラブで如何わしい輩と付き合うのを防ぐために、昔ながらの方法に頼っているという記事もありました。


ある女性は、娘のヘルガをそのようなナイトクラブに出入りしているのを知り、ヘルガがクラブに入ろうとしているところを捕まえて、家に連れて帰って素っ裸にさせ、自分の母親が子供の頃に使っていた道具で彼女を押さえつけて鞭打ちをしたというのです。


翻訳では、彼女はこう言っています。

「私が若い頃、母が私を叩くのがとても嫌でした。だから私がヘルガにそれをするとは思っていませんでした。でも、私のヘルガは、女性や他の同性愛者と一緒に飲んでいるところを目撃し、その手段を使わざるを得ませんでした。彼女は私のことを古臭いと言っています。でもヘルガ覚悟しておきなさい。私は、彼女が自分の間違いに気づくまで、毎日彼女の剥き出しのお尻を叩いて、いかに古臭いのかをたっぷり見せつけてやろうと思っています。」


ヘルガが実は退廃的な趣味の持ち主だったら、それを楽しんでいたのではないかと思ってしまいます。 









2021年11月5日金曜日

日曜日の「お仕置き」

これはとある掲示板に掲載されていた投稿です。

私が少年だった頃 母は牧師と再婚をしました。

1950年代、それはとても清らかな時代だったと記憶しています。 

牧師にはすでに2人の娘がいて、 2人とも私より年上でした。


私は11歳、娘たちは15歳か16歳、17歳くらいだったでしょうか。

新しい継父は躾に厳しくと子供たちに正しい行動を常に求めていました。

しかし、私はいつも喧嘩ばかりしていて、いつも罰を受けていました。


私の罰といえば、石炭小屋の壁磨きでした。

白いコンクリートが見えるようになるまで磨き落とさなければなりませんでした。


義父はこの罰は男の子にこそ適した罰であって、娘たちには不適切な罰だと思っていました。

しかし、少なくとも一度は、私をかばおうとした母が石炭小屋の掃除をさせられていたこともありました。

「子供の罰」を受けさせられた母が、彼を恨めしく思っていた顔を私はずっと覚えています。


継父の娘たちは日曜日の教会の後、いつも必ずお仕置きをされていました。

最初私は、彼女たちは床磨きなどの簡単な罰を受けているのだと思っていました。

しかし、すぐにそうではないことを知ることになりました。


また、私は歳を取るにつれて、姉たちの「お仕置き」に興味と関心を持つようになり、もっと知りたいと思うようになりました。


継父は写真立ての後ろに杖笞を置き、ホールには洋服ブラシを置いていました。

姉たちの教会の後のお仕置きは、決まってお尻叩きでした。

継父の膝の上で洋服ブラシで尻を叩かれるか、書斎の椅子に腹這いにさせられて,杖笞で尻を叩かれていました。


私が12歳くらいの時、庭から書斎の窓から、長女がお尻を丸出しにされてお仕置きを受けているのを覗いていたのを覚えています。

終わった時には酷く泣いていましたが、彼女は継父に抱きついていました。

少女とは言っても、体付きはもう立派な大人の女性の素っ裸のお尻を見たのはその時が初めてでした。


姉たちとはすぐに仲良くなって、よくお菓子や漫画をもらいました。

2人とも私がお仕置きを盗み見していることも知っていたんだと思います。

ある日、次女が半笑いで私の髪を引っ張り「いいものが見られたかしら?」と言ってからかっていました。


私は恥ずかしかったけど、覗き見を止めることはできませんでした。


ある時、私は村の店で万引きしたところを捕まえられたことがありました。

ついに私も継父からのきつい尻叩きを受けるのだと思っていましたが、継父は「『尻叩き』は女のためのものだ。」と言って、1ヶ月間、石炭小屋の掃除と万引きをした店の雑用をさせられました。


姉たちの尻叩きと笞打ちは、私が大学に進学してからもずっと続いていました。

2人とも看護師になったので、何度か看護師の制服姿でお仕置きされているのを見たことがあります。

長女は28歳で結婚して家を出るまで、日曜の教会のあとはお仕置きの尻叩きを受けていました。


ある日、大学から帰省した私は、たまたま日曜日に自宅である牧師館に到着しました。

すると奥の方から誰かが叩かれているような音が聞こえてきました。

もちろんそれは、姉たちのどちらかがお仕置きされているのだと思い、私は奥の方へと進んで行きました。

その頃になると私は、姉たちの尻叩きなんて、ほとんど気にしなくなっていましたし、姉たちも、私が覗いていることなんてなんとも思っていませんでした。

それでも今日はどっちの姉のデカ尻が丸出しにされているのか確認のためこっそりと覗いてみました。


すると義父の膝には、いつもよりも大きくて立派なお尻が盛り上がっていたのです。


驚いたことに、お仕置きを受けていたのは母であることに気づきました。

かなりの衝撃と、突きつけられた事実に、衝撃を受け、覗き見トムとしての私のキャリアは、その時を持って終わりました。


時は流れて60年代となり、私には叩きがいのあるセクシー「お尻」を持った彼女を作っていました。





2021年11月1日月曜日

ポーラの日記②

イスタンブールのカーン氏のバーで働くことになったポーラ。

素行不良のお転婆娘のポーラはカーン氏からお仕置きを受けてしまいます。

せっかく、叔母様の「尻叩き」から逃れたはずのポーラだったのに、またしてもポーラのニッカーズは引き下げられます。

また、そこに待ち受けていたのは…


今回は、カーン氏とその夫人も含めて、ポーラのお尻が腫れ上がります。

そしてあの人も…

ボリューム少なくてすいません。 ビシッ! 





2021年10月31日日曜日

ポーラの日記①

叔母様に引き取られたポーラは、日々の厳しい躾に悩まされていた。

叔母様からのお仕置きは当然「尻叩き」。

日々繰り返される叔母様のお仕置きから逃れるために、旅に出たポーラ。

魅力的なお尻を持つおっちょこちょいのポーラには、叔母様から逃れたからとしても、「尻叩き」のお仕置きが付き纏う。


新しいシリーズのスタートです。

日記形式で綴られたお仕置き旅行記。

一話一話は非常に短いので、読みやすい作品だと思います。

今回は、ポーラのお尻一択です! ビシッ!






2021年10月30日土曜日

1950年代の妻の物語

翻訳掲載いたします。

この記事「A Voice in the Corner」に掲載されていたもので。


手記の内容は、正しくは1960年代に起こった出来事ですが、1958年に18歳の少女と年配の男性が結婚したことから始まります。

興味深いのは、当事者の女性は当時、自分の結婚生活のある側面に直面して恐怖を感じ、おそらく「変態」の臭いがするため遠ざかっていただろうということです。

そのため、彼女はそれを受け入れられるように装う方法を見つけなければなりませんでした。


彼女の話。


私は少女時代に体罰を受けたことがありますが、それは大したことではありませんでした。

父はスリッパを使い、母は緑色の短い棒を使って私の足やお尻を叩いていました。だから、

ケントンと私の両親が、彼と結婚する条件として、私が悪い妻であった時には、お尻を叩くことを許しても、私は不思議に感じませんでした。


ケントンは私より20歳以上年上で、都市部の銀行に勤めていました。

そのため、ベッドフォードからサリーに移ったとき、私は全ての友人を失い、孤立無援になりました。

しかし逆にそのおかげで、新しい生活に適応しやすかったという面もありました。


例えば、結婚して間もない頃、ケントンに頼まれて、お客さんとその奥さんのために夕食を作ったことがありました。

私は料理が得意ではありませんでしたが、雑誌に載っている流行のカレーを作ってみようと思いました。

でも残念ながら、米の炊き方がわかりません…


当時、電話は非常に高価なもので、ケントンからは勝手に電話を使うなと言われていました。

また、近くに友達もいないので、お米のことを聞ける人もいませんでした。


結局、たくさん作りすぎてしまいました。

だって、こんなに少ない量でこんなに増えるとは思っていませんもの。

その結果、夕食は大失敗。


その夜、ケントンは私に10分ほどお説教した後、初めて本格的なお仕置きをしました。

私を膝に乗せて泣くまでお尻を叩いたのです。酷いと思いましたが、終わった後は不思議と暖かい気持ちになり、仲直りできました。


それ以来、たまにケントンからのお仕置きが欲しくなり、長い間、わざと「ミス」をしていたのを覚えています。


もうひとつ、結婚して2年ほど経った頃に起こったことがあります。

大喧嘩した後、私は母のもとに帰りました。

お母さんとお父さんはそのことに納得せず、ケントンに電話をかけて迎えに来てもらいました。


その後、ケントンは杖笞を買ってきました。

それは、母が持っていた杖笞とは全く違うもので、それを使うときには、私はお尻だけ丸出しにして、ベッドの上にうつ伏せにならなければなりませんでした。

こんなに痛かったのは初めてだったし、終わった後は何日も笞跡が残っていました。


仲直りは相変わらずで、ケントンは私が本当に悪いときにしか杖笞は使わないと約束してくれました。


このようにして、私たちの生活のパターンが確立されていきました。

数週間に一度、私が「何か間違ったこと」をすると、お尻を叩かれ、その後、仲直りをするのです。


これは私が20代になり、最初の子供が生まれるまで続きました。

その後、私が彼を怒らせることはほとんどなくなり、彼はよく躾られた良い妻だと思っていたと思います。


そんなある日の夜、夫の大切な友人や取引先を招いてのディナーパーティーがありました。

子供たちは友達のところに行っていたので、私は何日もかけて準備をしました。

当時はスフレが流行っていたので、1週間前にリハーサルのために1つ作ったこともありました。

しかし、当日、スフレは膨れ上がらず、私は不機嫌になりました。

台所で物にあたって壊しただけでなく、アドバイスをくれようとした取引先の奥様にも悪態をついてしまいました。


ケントンは激怒し、その場で私は叱られ、ベッドに連れて行かれました。

実際、彼は私のことを生意気だと言い、お客様に対して「夕食が済んで、皆様がお帰りになられた後、この聞き分けのない妻をベッドでたっぷり折檻しておきます。」と言い、尻を一発平手打ちされました。

もー!想像できますか。


彼らが帰った後、私はベッドルームで寝間着を脱がされました。

そして、ベッドの上に屈んでお尻を突き出し、厳しい笞打ちを受けました。

ものすごい回数を打たれて、私は本当に泣いていました。


おかしなことに、仲直りは以前と同じようにうまくいき、そのことについて話しました。

私は、もし彼が時々私を叱ってくれたら、私はあんな癇癪は起こさないだろうと言い、もし私がイライラいるときに、その後笞のお仕置きが待っていると知ったら、馬鹿げた行動は取らないはずだとも言いました。


子供たちのことを考えるとなかなか難しいことでしたが、私たちにとっては夫婦関係を保つ最善の方法でした。





2021年10月22日金曜日

18世紀のパーティーなど

翻訳掲載いたします。

この記事「A Voice in the Corner」に掲載されていたもので。


最初の絵画は、ロイヤルジョークです。

プリンス・オブ・ウェールズ(=英国の皇太子)が愛人のフィッツハーバート夫人の尻を叩くのを描いたもので、典型的な作品です。


18世紀の英国では、社会と法律の両方が、羞恥と暴力全般に対して、現在に比べるとはるかに緩やかな見解を持っていました。

例えば、誰かへの重大な暴行であっても、その暴行から1年と1日以内に死亡した場合や、犯罪の過程で財産が奪われたり、破産を招いたりした場合を除いては、訴追の対象とはなりませんでした。

また、紳士は自分の名誉を傷つけられた場合、いつでも決闘に訴えることができたのです。

そのため、無差別に行われる「尻叩き」は、法律の問題ではなく、ユーモアの対象としてしか扱われていませんでした。


例えば、ミルトン・カーデューがロンドンの路上で生意気な若い荷物持ちに悪態をつかれたとき、彼は何も考えずに彼女のスカートを持ち上げて、音を立てて鞭打ちをしても何の問題もありませんでした。

これは今日のように下着が一般になる以前の時代には、彼女の裸のお尻を意味していました。

おそらく、若い荷物持ちの友人たちが彼女を助けようと駆けつけたかもしれませんが、見物人たちはその光景を笑いながら楽しんでいたのだと思います。


確かに、18世紀においては、家の主が女性の尻を叩く特権を事実上持っていました。

それは、平手はもちろんのこと、白樺のバーチや革鞭など、主の決めたやり方で、好きに行うことができました。

その叩かれる「尻」は、メイドや成人した娘、あるいは妻など、様々で、彼女たちは法律上の手段を取ることはできなかったでしょう。


1790年代のあるパーティーでは、ある女性が、ハザード(当時流行していたカードゲーム)に飽きていたのか、賭けの対象として、「2スコアのストローク(=40打)白樺のバーチ」を賭けて楽しんだという記録が残っています。


真ん中の絵画は19世紀のものですが、この場面をよく再現しています。


また、下の絵のような服装が、このようなパーティーの進行を円滑に進めたのかもしれませんね(笑)。











2021年10月15日金曜日

バーレスク、尻叩き、そしてそのすべてのエンターテインメントについて

翻訳掲載いたします。

この記事は「A Voice in the Corner」に掲載されていたもので。


最近、不良娘、女子大生、劇場など様々なカルチャーにおける「尻叩き」の歴史を求めて、戦時中まで遡り、いくつかの不揃いの断片的な資料を漁りました。


例えば、最近テレビで放映された英国の劇場に関するドキュメンタリー番組で、たまたま「尻叩き」について言及されていました。

その中では、母性に溢れる大家さんが若い娘を母親代わりに「尻叩き」していたという逸話でした。


同じテーマでアメリカに関連したものもありました。

ジャズクラブと不良娘に関連した逸話でした。

ある新進気鋭のアーティストの母親は、娘の友人たちを何人か引き取って、家のルールを破ったり、劇場からの帰りが「1分でも遅れた」場合には、お仕置きをしていたという話でした。


次に詳細は不明ですが、父と娘のふりをした夫と妻の演技についての記述もありました。

彼らの演技には、パドルや尻叩きのシーンがあったようです。


しかし、その過程で、バーレスクの古典的な尻叩きも発見しました。

それは、Singing Hill、Cowcatcher's Daughter、Betty Page、Fabulous Fannyなどの有名な演技や写真、映画でした。


もうひとつの珍品は、サリー・ランドと彼女のヌード牧場です。

サリー・ランドのヌード牧場は、1939年に開催されたトレジャー・アイランド万国博覧会の入り口にありました。

写真を見ればわかるように、当時としてはかなり大胆な構図で、これらの写真でもわかるようにカウガールに扮した女優たちが胸と尻を丸出しにして乗馬をしたり、遊んだりしています。

その中で「尻叩き」が行われたかどうかはわかりませんが、彼女のこの試みは「Cowcatcher's Daughter」の伝統ときちんと踏まえていました。


サリー・ランドはただのお馬鹿な美人さんではありませんでした。

彼女は大きな風船の中で裸で踊ることを思いつきました。しかし、そのための技術が見つからなかったため、彼女はそのための研究に資金を提供しました。

しかし、透明な風船の中で裸で踊ることは当時としては、流石にやりすぎでした。


1935〜36年の冬、サンディエゴで開催されたカリフォルニア太平洋博覧会では、舞台上で踊っていた彼女に対して、観客から小石を投げられました。

怪我をしていたにもかかわらず、彼女は一旦降壇し、風船の替わりに扇子を持って演技を続けたのです。


サリーや性扇情的な試みをした人々は、文字通り歴史からその名は抹殺されてしまいました。

それらは、際どいエンターテイメントの一部に過ぎないかもしれません。


歴史に埋没したエンターテイメントには、まだまだ「尻叩き」の表現があるかもしれません。

















あるレディーズ・コンパニオンの思い出(前編) さあ、今回から新しいシリーズの始まりです。 今回のテーマは「レディーズ・コンパニオン」です。 「レディーズ・コンパニオン」なんて聞き馴染みのないテーマですよね。 簡単に言うとお金持ちのご婦人と金で雇われた年下の介添人といったところでし...