ザ・フラッパー
第一次世界大戦後、女性はかつてないほどに自由になりましたが、彼女たちのその「ワイルド」な行動を誰もが認めているわけではありませんでした。
このような女性たちは「フラッパーズ」と呼ばれていました。
ここでは、百科事典に掲載されているフラッパーの定義を紹介します。
1920年代のフラッパーという言葉は、短いスカートを履き、髪を束ね、ジャズを聴き、当時の正しいとされていた行動を軽蔑していることを誇示する若い女性を意味していました。
フラッパーズは、過剰な化粧をし、酒を飲み、セックスをカジュアルに扱い、タバコを吸い、自動車を運転するなど、社会的・性的規範を無視した生意気な女性とみなされていました。
フラッパーズの起源は、第一次世界大戦後の自由主義、社会的・政治的混乱、大西洋間の文化交流の高まり、そしてアメリカのジャズ文化のヨーロッパへの輸出にあります。
アメリカでこの言葉とイメージが最初に登場したのは、1920年に公開されたフランシス・マリオン主演の人気映画「The Flapper」で、オリーブ・トーマスが主演しました。
トーマスは1917年にも同じような役で出演していたいましたが、この言葉が使われるようになったのは「The Flapper」からです。
彼女の最後の映画では、フラッパーのイメージが確立されました。
その後、クララ・ボウ、ルイーズ・ブルックス、コリーン・ムーア、ジョーン・クロフォードなどの女優たちが、同じイメージで活躍し、人気を博しました。
アメリカでは、禁酒法に対する人々の反感が、フラッパーの台頭の要因となりました。
合法的なサロンやキャバレーが閉鎖され、路地裏の酒場が盛んになり、人気を博したのです。
宗教的な理由で法律を遵守する禁酒運動と、実際にいたるところで酒が飲まれていることとの間に矛盾が生じ、権威を軽視する風潮が広がりました。
フラッパーの独立心は、1890年代のギブソンガールにも起源があるかもしれません。
戦前のスタイルは、フラッパーの個性とは似ても似つかぬものでしたが、彼女たちの独立心とフェミニズムが、30年後のフラッパーのヒントになったのかもしれません。
フェミニズム以前の時代に、気性が荒く反抗的なフラッパーは、北米や西欧の古い伝統的な価値観に直接挑戦するものでした。
家族向けの雑誌では、「フラッパーを気取る娘はお尻を叩かれるべきか?」といった記事が掲載されることも、全く珍しいことではありませんでした。
アル・カポネは、自分の娘がフラッパーになったらという質問に対して、「尻を革鞭で引っ叩いてやる!」と言っていたほどです。
これは、当時の多くの人の意見でした。
23歳のジェーン・ハリントンは、1928年の「ニューヨーカー」誌において、ジョーン・クロフォードが街中で自立した女の子でいられるのは、家に帰ってもヘアブラシを持った母親が待っていないからだと不満の記事を掲載しています。
「なぜなら、私が家に帰ると、親愛なるママが正義の剣のようにヘアブラシを突き出して、私の『お尻』を狙っているからです。私は今、クッションの上に座ってこのノートを書いています。」と彼女はこう付け加えました。
「ママに反抗しないわけではありませんが、前回のお仕置きのアザが残っているのに、さらに座り心地の悪さを追加されたら、せっかくの夜の街の楽しみが半減してしまいます。」
しかし、ジョーン・クロフォードもお仕置きとは無縁ではありませんでした。
若い頃の彼女は、反抗的なフラッパーの役を得意とし、愛に満ちた男性俳優に癒されていました。
「Forsaking All Others」では、彼女はクラーク・ゲーブルから1度ならず2度までもお仕置きを受けてます。
1度目は彼女を正気に戻すため、もう1度は彼女自身が謝罪のために要求したものです。
1926年、同じニューヨークに住むグラハム夫人は、「未婚の娘がフラッパーのような馬鹿げた格好をしていたら、お尻にヘアブラシが待っているのだから、お行儀よくしなければならないわ。」と強い意見を述べていました。
「先週、私の26歳の娘がミルクを持って帰ってきたとき、全く馬鹿げた格好をしていたわ。彼女の格好と言ったら短すぎるスカートを履いていて、足を曝け出していたのよ。その前の週には、同じような格好をしていた彼女の妹をこっぴどくお仕置きをしたばっかりだというのに、なんて分からず屋なのかしら。当然、その場でお仕置きしてやったわ。私の厳しい尻叩きを受ければ、彼女もあんな馬鹿げた格好はしなくなるはずよ。娘なんて者は結婚するまで、毎日尻をさすりながら、暖炉の上で食事を取ったらいいのよ。」
お仕置きを受けるのは未婚の娘だけではありませんでした。
1924年、メイン州に住むジャック・シーグローブは、「フラッパーのように振る舞っている。」という理由で妻を叱り、ニュースとなりました。
彼は妻の服装が気に入らなかったようで、自分の家の玄関先で妻の尻を叩き、近所の人たちが警察に通報したのです。
起訴はされず、地元の警察署長は「郡内のすべての男性がこのような態度をとれば、法を犯す者は減るだろう。」と納得していたそうです。
フラッパーがこのような反応を起こしたのは、アメリカだけではありませんでした。
1929年、イギリスのマンチェスターでは、チャールズ・B氏が地元の新聞に「最近のアメリカでは、スキャンダラスな服装や行動が流行っている。」と非難する投稿を行いました。
「私はこれまでに、3人の娘たちがおかしな行動をしたときには、尻を叩いたり、体を縛ったりして躾けてきました。先週も、私に逆らったことを後悔させるため、3人が代わる代わるキッチンテーブルの上に乗せられて、大きな裸の尻を叩かれたばかりです。人前での謙虚さ足りない場合には、マナーを守るように、その場で服の上から尻を叩いてやります。もちろん帰宅後の償いは言うまでもありませんが…」
また、1927年には、ベルリンの伝統的な家庭で、娘が街のナイトクラブで如何わしい輩と付き合うのを防ぐために、昔ながらの方法に頼っているという記事もありました。
ある女性は、娘のヘルガをそのようなナイトクラブに出入りしているのを知り、ヘルガがクラブに入ろうとしているところを捕まえて、家に連れて帰って素っ裸にさせ、自分の母親が子供の頃に使っていた道具で彼女を押さえつけて鞭打ちをしたというのです。
翻訳では、彼女はこう言っています。
「私が若い頃、母が私を叩くのがとても嫌でした。だから私がヘルガにそれをするとは思っていませんでした。でも、私のヘルガは、女性や他の同性愛者と一緒に飲んでいるところを目撃し、その手段を使わざるを得ませんでした。彼女は私のことを古臭いと言っています。でもヘルガ覚悟しておきなさい。私は、彼女が自分の間違いに気づくまで、毎日彼女の剥き出しのお尻を叩いて、いかに古臭いのかをたっぷり見せつけてやろうと思っています。」
ヘルガが実は退廃的な趣味の持ち主だったら、それを楽しんでいたのではないかと思ってしまいます。
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