ポーラの日記③
中東の見知らぬ街でやらかしてしまったポーラ。
宗教上の理由で地元の警察に捕まってしまい、拘束されてしまいます。
いくつもの罪を重ねたポーラに言い渡されたのは、「笞打ち」の刑
想像もできない数の笞がポーラのお尻を腫れ上がらせます。
突然の物語の飛躍に驚かれる読者もいらっしゃるかもしれません。
誰もが叩きなるポーラのお尻。
実在するなら会ってみたいですね… ビシッ!
悩み相談風の作品
「The Best of '1950's Wife'」という作品です。読者からの悩みに1950's Wifeが答えるというフォーマットで作られている作品です。
https://www.amazon.com/Best-1950s-Wife-Claire-Colinsgrove-ebook/dp/B00DFNWC0K
妻の躾に「ブルズアイ スパンキング パンティ」は有効か?という紳士からのお便りです。
確かに妻の態度や行動に明らかな改善が見られましたが、私が求める従順さにはまだまだ十分ではありませんでした。
そこで、私は革製のトォーズを購入しました。
当然のことながら、トォーズを使って躾をするにあたっては、狙いを完璧に定めて行いいたと思っています。
そのために、「ブルズアイショーツ」は役に立ちますでしょうか?
また、妻が実際には悪さをしていないのに、トォーズを打つ練習のために尻を打つのは妻にとって不公平でしょうか?
1950’s wife様ご教示願えますか?
1950’s wife
親愛なる訪問者様、「ブルズアイパンティ」、素晴らしいアイデアですね。
多分、インターネットで購入できると思いますが、夫は私がこのブログを書いたり、手紙の返事を書いたりするためにしか、インターネットを使うことを許してくれないので、確かなことはわかりません。
でも大丈夫!自家製の「ブルズアイパンティ」で十分です。
一番薄い生地の真っ白なパンティを買ってきて、フェルトペンでブルズアイを描くように奥様に言ってください。
もし、正確に描けなかったら、泣くまでお尻を叩いてください。
その後、パンティを手洗いさせ、物干し竿に吊るし、乾くまでお尻を丸出しにして部屋の隅に立たせ、また最初からやり直すというのはどうでしょう。
納得のいく「ブルズアイパンティ」が完成したら、奥様を前屈みにさせ、つま先を手で触るように命じます。
そして、あなたは彼女のスカートを持ち上げて、トォーズでの尻叩きの練習を始めるとよいでしょう。
また、上階にお住まいの老夫婦をあなたのアパートに招いて、お仕置きを披露し、羞恥心を高めるというのもよいかもしれません。
老夫婦に的(=ブルズアイ)の中心に当たったときには「ナイスショット!」とか、外れたときには「あー残念だ!外れたからさっきのはなしだな!ほらほら、尻が下がってるぞ!頑張れ悪戯娘!」と掛け声をかけてもらうことで、お仕置きに集中できるのではないでしょうか。
若奥様がじっとしていられない場合には、年長の奥様が奥様の前に立って肩を押さえてあげるのもいいでしょう。
また、年配の紳士が、最高の叱り方を教えてくれるかもしれません。
もちろん、悪いことをしていないのに奥様のお尻を叩く練習をすることは、奥様にとって少しも不公平ではありません。
鞭打ちは彼女のためになるのですから。
私の夫は定期的なお仕置きとして私をお尻を叩きます。
私が彼の膝の上で泣いていると「尻叩きは規律の再確認と夫自身の喜びのためだ。」と言っています。
夜の的(=ブルズアイ)当てが終わったら、奥様をあなたの前に跪かせ、たっぷり躾けてもらったあなたの手にキスをさせ、お仕置きへの感謝と、あなたの腕を疲れさせたことを謝らせます。
また、私たち夫婦の場合は、夫が私を徹底的に鞭打ちし、コーナータイムを終えたとき、私は夫に「お仕置きしてくれてありがとうございます。」と感謝の言葉述べます。
そして夫の肩、首をよくマッサージして、筋肉が硬くならないように配慮します。
私はそれが妻の義務だと思っています。
その時も当然お尻は丸出しのままです。何か粗相があったらその場で、ピシャン!と尻を叩かれます。
あなたの奥様にもやってもらうことをお勧めします。
古き良き時代
1940年代と50年代の文化、特にコミックと映画の関連性について議論しているWertham Projectを偶然見つけました。
このプロジェクトでは、ロイス・レーンがスーパーマンにお仕置きされるという人気キャンペーンについて触れています。
当時、このキャンペーンは人気を博しましたが、出版社はこの呼びかけがより下品な興味を持った読者たちに乗っ取られることを懸念しました。
アメリカ(一部のヨーロッパ)の主流文化におけるロマンチックな男女のスパンキングへの複雑な興味と嗜好を解明することは大変困難です。
ブログにはこう書かれています。
エイボン社のコミックは、エイボン社の小説と非常に密接な関係があり、それらには小説にはスパンキングシーンも含まれていました。
なぜこれらのシーンがエイボンコミックスだけでなく、エイボンの本全般に影響を与えたのかはわかりません。
また、アメリカの西部劇は、40年代から60年代にかけてとても人気のあるジャンルでした。
なぜこのような映画が人気を博したのか、私にはさっぱりわかりません。
いつも同じプロットで同じ俳優が登場します。
その中の一つに、主人公が恋する女性のお尻を叩くというものがありました。
ある時、Jezebelが20世紀の文化における尻叩きの文化史を特集したところ、この現象を純粋な父権主義や性差別だと考える人と、それがセックスやBDSMなどの性的な嗜好だと主張する人との間で、かなり激しい議論が起こりました。
これらの議論には何らかの真実があるのではないかと思われます。
Wertham Projectの記事全文はこちらからご覧いただけます。
平牙人考②
「平牙人」氏の名を知ってから、また「ママのおしおきはお尻たたき」という作品を知ってから、私は悶々とした日々を過ごした。当時未成年で田舎に住んでいた私には、それを入手することもできないし、netのなかったその時代、新しい情報も容易に手にすることはできなかったからだ。
読者の方には、不快に思われる方も当然いると思うが、私は鏡の前で自分の尻を剥き出しにし、それをあたかも女の子お尻であると思い込みながら、したたか叩き、痛みと共に自慰に至るという、切ない時期を2年間送ったことを今でも覚えている。
大学を受験することになり、迷わず東京の学校を受験した。それは、何をさておき当時、三和出版の全ての作品を扱っている「メンズクラブサンワ」(御徒町:閉店)があったことと、平牙人氏の作品が閲覧できる「風俗資料館」(神楽坂:移転前)があったからだ。
大学に入学し、上京した私は迷わず、「メンズクラブサンワ」へ向かい「ママのおしおきはお尻叩き」を購入した。正直、あまりにも待ちすぎ期待とイマジネーションが作品のそれを超えてしまっていたのと、もう一つの伝説の作品「おしおき倶楽部」(1995年)が創刊されており、このムックが映像作品を私の中で超えていたこともあり、期待外れであったことを覚えている。
特に「おしおき倶楽部」第一号の巻頭グラビア「やっぱり優しいママが好き」の制服の女の子であるナカタ・ユキコの丸々とした剥き出しの大きなお尻に小川真美さんのお仕置きの右手が打着し、尻を叩かれたの大きないい音が響き渡っている情景を容易に想像できるあの頁は未だに自分の頭の中で1番最初に思い浮かべるお仕置きグラビアだ。
また、上京して一月も立たないうちに、私は風俗資料館の会員にもなった。お恥ずかしい話、大人のサロンである当資料館の会費が払いきれず数ヶ月で退会することになり、その真髄をその当時に見極めることができなかったことを現在に至っても後悔しているが、平牙人氏の作品にもいくつか触れた。後年改めて複写を手に入れるのだが、「Gazetto」と「エフィ」だったと記憶しているが、興奮のあまりそれを読み終えることができなかったことを覚えている。(後述、これらの作品に関わらず平氏の作品の私の好きなフレーズや描写については記述していきたいと考えている。)
また、1人暮らしを始めた私にとって、田舎の閉鎖れた空間から解き放たれ、自由に「お仕置き」や「お尻」のことを楽しめるようになったことを、インターネットの普及が後押ししてくれたことは間違いない。最初にパソコンを手に入れnetの世界にアクセスしたのは1997年であったことを覚えている。
1995年以降、三和出版のマニア倶楽部において今後のnetの隆盛の予測が語られ始めており、平牙人氏がスパンキングに関するHPを立ち上げているとの情報を得ていたところであった。
当然、私は最初に平牙人氏のHPへアクセスしたわけである。(当時はインターネットの概念もよくわからず、周りに知る人もいず。URLを手打ちし、電話代を気にしながら、四苦八苦して平氏のHPにたどり着いたのを覚えている。)
平氏のHPは英語で辞書を引きながら閲覧していた。そこには今まで見たこともない「お尻」が私が思い描いている形でたくさん存在していた。また、その時はじめて海外には「スパンキング」というジャンルがあり、たくさんの愛好家がおり、「お仕置き」を楽しんでいることを知った。また、そのジャンルは歴史的にも古く、伝統的に愛されていることも知った。
そう自分は突然変異的にこの性癖になったわけではなく。自分の持っている性癖は奥行きがある文化であると認識できるようになった。孤独な気持ちから解放されたのだ。
そのHPには平氏の生の声(文章)もあり、たくさんの方々の小説も掲載され、私が求めていた性癖の欲求を満たしてくれた。そして「SP-CLUB」「TIGER-REVERIE」「Spanking Data Room」など日本人の方々の黎明期のスパンキングを題材としたHPに触れることもできた。(その時に触れ、現在も日々のポータルサイトとして利用している「Media-spanking」は本当に偉大な存在だと思う。)
ザ・フラッパー
第一次世界大戦後、女性はかつてないほどに自由になりましたが、彼女たちのその「ワイルド」な行動を誰もが認めているわけではありませんでした。
このような女性たちは「フラッパーズ」と呼ばれていました。
ここでは、百科事典に掲載されているフラッパーの定義を紹介します。
1920年代のフラッパーという言葉は、短いスカートを履き、髪を束ね、ジャズを聴き、当時の正しいとされていた行動を軽蔑していることを誇示する若い女性を意味していました。
フラッパーズは、過剰な化粧をし、酒を飲み、セックスをカジュアルに扱い、タバコを吸い、自動車を運転するなど、社会的・性的規範を無視した生意気な女性とみなされていました。
フラッパーズの起源は、第一次世界大戦後の自由主義、社会的・政治的混乱、大西洋間の文化交流の高まり、そしてアメリカのジャズ文化のヨーロッパへの輸出にあります。
アメリカでこの言葉とイメージが最初に登場したのは、1920年に公開されたフランシス・マリオン主演の人気映画「The Flapper」で、オリーブ・トーマスが主演しました。
トーマスは1917年にも同じような役で出演していたいましたが、この言葉が使われるようになったのは「The Flapper」からです。
彼女の最後の映画では、フラッパーのイメージが確立されました。
その後、クララ・ボウ、ルイーズ・ブルックス、コリーン・ムーア、ジョーン・クロフォードなどの女優たちが、同じイメージで活躍し、人気を博しました。
アメリカでは、禁酒法に対する人々の反感が、フラッパーの台頭の要因となりました。
合法的なサロンやキャバレーが閉鎖され、路地裏の酒場が盛んになり、人気を博したのです。
宗教的な理由で法律を遵守する禁酒運動と、実際にいたるところで酒が飲まれていることとの間に矛盾が生じ、権威を軽視する風潮が広がりました。
フラッパーの独立心は、1890年代のギブソンガールにも起源があるかもしれません。
戦前のスタイルは、フラッパーの個性とは似ても似つかぬものでしたが、彼女たちの独立心とフェミニズムが、30年後のフラッパーのヒントになったのかもしれません。
フェミニズム以前の時代に、気性が荒く反抗的なフラッパーは、北米や西欧の古い伝統的な価値観に直接挑戦するものでした。
家族向けの雑誌では、「フラッパーを気取る娘はお尻を叩かれるべきか?」といった記事が掲載されることも、全く珍しいことではありませんでした。
アル・カポネは、自分の娘がフラッパーになったらという質問に対して、「尻を革鞭で引っ叩いてやる!」と言っていたほどです。
これは、当時の多くの人の意見でした。
23歳のジェーン・ハリントンは、1928年の「ニューヨーカー」誌において、ジョーン・クロフォードが街中で自立した女の子でいられるのは、家に帰ってもヘアブラシを持った母親が待っていないからだと不満の記事を掲載しています。
「なぜなら、私が家に帰ると、親愛なるママが正義の剣のようにヘアブラシを突き出して、私の『お尻』を狙っているからです。私は今、クッションの上に座ってこのノートを書いています。」と彼女はこう付け加えました。
「ママに反抗しないわけではありませんが、前回のお仕置きのアザが残っているのに、さらに座り心地の悪さを追加されたら、せっかくの夜の街の楽しみが半減してしまいます。」
しかし、ジョーン・クロフォードもお仕置きとは無縁ではありませんでした。
若い頃の彼女は、反抗的なフラッパーの役を得意とし、愛に満ちた男性俳優に癒されていました。
「Forsaking All Others」では、彼女はクラーク・ゲーブルから1度ならず2度までもお仕置きを受けてます。
1度目は彼女を正気に戻すため、もう1度は彼女自身が謝罪のために要求したものです。
1926年、同じニューヨークに住むグラハム夫人は、「未婚の娘がフラッパーのような馬鹿げた格好をしていたら、お尻にヘアブラシが待っているのだから、お行儀よくしなければならないわ。」と強い意見を述べていました。
「先週、私の26歳の娘がミルクを持って帰ってきたとき、全く馬鹿げた格好をしていたわ。彼女の格好と言ったら短すぎるスカートを履いていて、足を曝け出していたのよ。その前の週には、同じような格好をしていた彼女の妹をこっぴどくお仕置きをしたばっかりだというのに、なんて分からず屋なのかしら。当然、その場でお仕置きしてやったわ。私の厳しい尻叩きを受ければ、彼女もあんな馬鹿げた格好はしなくなるはずよ。娘なんて者は結婚するまで、毎日尻をさすりながら、暖炉の上で食事を取ったらいいのよ。」
お仕置きを受けるのは未婚の娘だけではありませんでした。
1924年、メイン州に住むジャック・シーグローブは、「フラッパーのように振る舞っている。」という理由で妻を叱り、ニュースとなりました。
彼は妻の服装が気に入らなかったようで、自分の家の玄関先で妻の尻を叩き、近所の人たちが警察に通報したのです。
起訴はされず、地元の警察署長は「郡内のすべての男性がこのような態度をとれば、法を犯す者は減るだろう。」と納得していたそうです。
フラッパーがこのような反応を起こしたのは、アメリカだけではありませんでした。
1929年、イギリスのマンチェスターでは、チャールズ・B氏が地元の新聞に「最近のアメリカでは、スキャンダラスな服装や行動が流行っている。」と非難する投稿を行いました。
「私はこれまでに、3人の娘たちがおかしな行動をしたときには、尻を叩いたり、体を縛ったりして躾けてきました。先週も、私に逆らったことを後悔させるため、3人が代わる代わるキッチンテーブルの上に乗せられて、大きな裸の尻を叩かれたばかりです。人前での謙虚さ足りない場合には、マナーを守るように、その場で服の上から尻を叩いてやります。もちろん帰宅後の償いは言うまでもありませんが…」
また、1927年には、ベルリンの伝統的な家庭で、娘が街のナイトクラブで如何わしい輩と付き合うのを防ぐために、昔ながらの方法に頼っているという記事もありました。
ある女性は、娘のヘルガをそのようなナイトクラブに出入りしているのを知り、ヘルガがクラブに入ろうとしているところを捕まえて、家に連れて帰って素っ裸にさせ、自分の母親が子供の頃に使っていた道具で彼女を押さえつけて鞭打ちをしたというのです。
翻訳では、彼女はこう言っています。
「私が若い頃、母が私を叩くのがとても嫌でした。だから私がヘルガにそれをするとは思っていませんでした。でも、私のヘルガは、女性や他の同性愛者と一緒に飲んでいるところを目撃し、その手段を使わざるを得ませんでした。彼女は私のことを古臭いと言っています。でもヘルガ覚悟しておきなさい。私は、彼女が自分の間違いに気づくまで、毎日彼女の剥き出しのお尻を叩いて、いかに古臭いのかをたっぷり見せつけてやろうと思っています。」
ヘルガが実は退廃的な趣味の持ち主だったら、それを楽しんでいたのではないかと思ってしまいます。
日曜日の「お仕置き」
これはとある掲示板に掲載されていた投稿です。
私が少年だった頃 母は牧師と再婚をしました。
1950年代、それはとても清らかな時代だったと記憶しています。
牧師にはすでに2人の娘がいて、 2人とも私より年上でした。
私は11歳、娘たちは15歳か16歳、17歳くらいだったでしょうか。
新しい継父は躾に厳しくと子供たちに正しい行動を常に求めていました。
しかし、私はいつも喧嘩ばかりしていて、いつも罰を受けていました。
私の罰といえば、石炭小屋の壁磨きでした。
白いコンクリートが見えるようになるまで磨き落とさなければなりませんでした。
義父はこの罰は男の子にこそ適した罰であって、娘たちには不適切な罰だと思っていました。
しかし、少なくとも一度は、私をかばおうとした母が石炭小屋の掃除をさせられていたこともありました。
「子供の罰」を受けさせられた母が、彼を恨めしく思っていた顔を私はずっと覚えています。
継父の娘たちは日曜日の教会の後、いつも必ずお仕置きをされていました。
最初私は、彼女たちは床磨きなどの簡単な罰を受けているのだと思っていました。
しかし、すぐにそうではないことを知ることになりました。
また、私は歳を取るにつれて、姉たちの「お仕置き」に興味と関心を持つようになり、もっと知りたいと思うようになりました。
継父は写真立ての後ろに杖笞を置き、ホールには洋服ブラシを置いていました。
姉たちの教会の後のお仕置きは、決まってお尻叩きでした。
継父の膝の上で洋服ブラシで尻を叩かれるか、書斎の椅子に腹這いにさせられて,杖笞で尻を叩かれていました。
私が12歳くらいの時、庭から書斎の窓から、長女がお尻を丸出しにされてお仕置きを受けているのを覗いていたのを覚えています。
終わった時には酷く泣いていましたが、彼女は継父に抱きついていました。
少女とは言っても、体付きはもう立派な大人の女性の素っ裸のお尻を見たのはその時が初めてでした。
姉たちとはすぐに仲良くなって、よくお菓子や漫画をもらいました。
2人とも私がお仕置きを盗み見していることも知っていたんだと思います。
ある日、次女が半笑いで私の髪を引っ張り「いいものが見られたかしら?」と言ってからかっていました。
私は恥ずかしかったけど、覗き見を止めることはできませんでした。
ある時、私は村の店で万引きしたところを捕まえられたことがありました。
ついに私も継父からのきつい尻叩きを受けるのだと思っていましたが、継父は「『尻叩き』は女のためのものだ。」と言って、1ヶ月間、石炭小屋の掃除と万引きをした店の雑用をさせられました。
姉たちの尻叩きと笞打ちは、私が大学に進学してからもずっと続いていました。
2人とも看護師になったので、何度か看護師の制服姿でお仕置きされているのを見たことがあります。
長女は28歳で結婚して家を出るまで、日曜の教会のあとはお仕置きの尻叩きを受けていました。
ある日、大学から帰省した私は、たまたま日曜日に自宅である牧師館に到着しました。
すると奥の方から誰かが叩かれているような音が聞こえてきました。
もちろんそれは、姉たちのどちらかがお仕置きされているのだと思い、私は奥の方へと進んで行きました。
その頃になると私は、姉たちの尻叩きなんて、ほとんど気にしなくなっていましたし、姉たちも、私が覗いていることなんてなんとも思っていませんでした。
それでも今日はどっちの姉のデカ尻が丸出しにされているのか確認のためこっそりと覗いてみました。
すると義父の膝には、いつもよりも大きくて立派なお尻が盛り上がっていたのです。
驚いたことに、お仕置きを受けていたのは母であることに気づきました。
かなりの衝撃と、突きつけられた事実に、衝撃を受け、覗き見トムとしての私のキャリアは、その時を持って終わりました。
時は流れて60年代となり、私には叩きがいのあるセクシー「お尻」を持った彼女を作っていました。
あるレディーズ・コンパニオンの思い出(前編) さあ、今回から新しいシリーズの始まりです。 今回のテーマは「レディーズ・コンパニオン」です。 「レディーズ・コンパニオン」なんて聞き馴染みのないテーマですよね。 簡単に言うとお金持ちのご婦人と金で雇われた年下の介添人といったところでし...