ポーラの日記①
叔母様に引き取られたポーラは、日々の厳しい躾に悩まされていた。
叔母様からのお仕置きは当然「尻叩き」。
日々繰り返される叔母様のお仕置きから逃れるために、旅に出たポーラ。
魅力的なお尻を持つおっちょこちょいのポーラには、叔母様から逃れたからとしても、「尻叩き」のお仕置きが付き纏う。
新しいシリーズのスタートです。
日記形式で綴られたお仕置き旅行記。
一話一話は非常に短いので、読みやすい作品だと思います。
今回は、ポーラのお尻一択です! ビシッ!
1950年代の妻の物語
翻訳掲載いたします。
この記事「A Voice in the Corner」に掲載されていたもので。
手記の内容は、正しくは1960年代に起こった出来事ですが、1958年に18歳の少女と年配の男性が結婚したことから始まります。
興味深いのは、当事者の女性は当時、自分の結婚生活のある側面に直面して恐怖を感じ、おそらく「変態」の臭いがするため遠ざかっていただろうということです。
そのため、彼女はそれを受け入れられるように装う方法を見つけなければなりませんでした。
彼女の話。
私は少女時代に体罰を受けたことがありますが、それは大したことではありませんでした。
父はスリッパを使い、母は緑色の短い棒を使って私の足やお尻を叩いていました。だから、
ケントンと私の両親が、彼と結婚する条件として、私が悪い妻であった時には、お尻を叩くことを許しても、私は不思議に感じませんでした。
ケントンは私より20歳以上年上で、都市部の銀行に勤めていました。
そのため、ベッドフォードからサリーに移ったとき、私は全ての友人を失い、孤立無援になりました。
しかし逆にそのおかげで、新しい生活に適応しやすかったという面もありました。
例えば、結婚して間もない頃、ケントンに頼まれて、お客さんとその奥さんのために夕食を作ったことがありました。
私は料理が得意ではありませんでしたが、雑誌に載っている流行のカレーを作ってみようと思いました。
でも残念ながら、米の炊き方がわかりません…
当時、電話は非常に高価なもので、ケントンからは勝手に電話を使うなと言われていました。
また、近くに友達もいないので、お米のことを聞ける人もいませんでした。
結局、たくさん作りすぎてしまいました。
だって、こんなに少ない量でこんなに増えるとは思っていませんもの。
その結果、夕食は大失敗。
その夜、ケントンは私に10分ほどお説教した後、初めて本格的なお仕置きをしました。
私を膝に乗せて泣くまでお尻を叩いたのです。酷いと思いましたが、終わった後は不思議と暖かい気持ちになり、仲直りできました。
それ以来、たまにケントンからのお仕置きが欲しくなり、長い間、わざと「ミス」をしていたのを覚えています。
もうひとつ、結婚して2年ほど経った頃に起こったことがあります。
大喧嘩した後、私は母のもとに帰りました。
お母さんとお父さんはそのことに納得せず、ケントンに電話をかけて迎えに来てもらいました。
その後、ケントンは杖笞を買ってきました。
それは、母が持っていた杖笞とは全く違うもので、それを使うときには、私はお尻だけ丸出しにして、ベッドの上にうつ伏せにならなければなりませんでした。
こんなに痛かったのは初めてだったし、終わった後は何日も笞跡が残っていました。
仲直りは相変わらずで、ケントンは私が本当に悪いときにしか杖笞は使わないと約束してくれました。
このようにして、私たちの生活のパターンが確立されていきました。
数週間に一度、私が「何か間違ったこと」をすると、お尻を叩かれ、その後、仲直りをするのです。
これは私が20代になり、最初の子供が生まれるまで続きました。
その後、私が彼を怒らせることはほとんどなくなり、彼はよく躾られた良い妻だと思っていたと思います。
そんなある日の夜、夫の大切な友人や取引先を招いてのディナーパーティーがありました。
子供たちは友達のところに行っていたので、私は何日もかけて準備をしました。
当時はスフレが流行っていたので、1週間前にリハーサルのために1つ作ったこともありました。
しかし、当日、スフレは膨れ上がらず、私は不機嫌になりました。
台所で物にあたって壊しただけでなく、アドバイスをくれようとした取引先の奥様にも悪態をついてしまいました。
ケントンは激怒し、その場で私は叱られ、ベッドに連れて行かれました。
実際、彼は私のことを生意気だと言い、お客様に対して「夕食が済んで、皆様がお帰りになられた後、この聞き分けのない妻をベッドでたっぷり折檻しておきます。」と言い、尻を一発平手打ちされました。
もー!想像できますか。
彼らが帰った後、私はベッドルームで寝間着を脱がされました。
そして、ベッドの上に屈んでお尻を突き出し、厳しい笞打ちを受けました。
ものすごい回数を打たれて、私は本当に泣いていました。
おかしなことに、仲直りは以前と同じようにうまくいき、そのことについて話しました。
私は、もし彼が時々私を叱ってくれたら、私はあんな癇癪は起こさないだろうと言い、もし私がイライラいるときに、その後笞のお仕置きが待っていると知ったら、馬鹿げた行動は取らないはずだとも言いました。
子供たちのことを考えるとなかなか難しいことでしたが、私たちにとっては夫婦関係を保つ最善の方法でした。
18世紀のパーティーなど
翻訳掲載いたします。
この記事「A Voice in the Corner」に掲載されていたもので。
最初の絵画は、ロイヤルジョークです。
プリンス・オブ・ウェールズ(=英国の皇太子)が愛人のフィッツハーバート夫人の尻を叩くのを描いたもので、典型的な作品です。
18世紀の英国では、社会と法律の両方が、羞恥と暴力全般に対して、現在に比べるとはるかに緩やかな見解を持っていました。
例えば、誰かへの重大な暴行であっても、その暴行から1年と1日以内に死亡した場合や、犯罪の過程で財産が奪われたり、破産を招いたりした場合を除いては、訴追の対象とはなりませんでした。
また、紳士は自分の名誉を傷つけられた場合、いつでも決闘に訴えることができたのです。
そのため、無差別に行われる「尻叩き」は、法律の問題ではなく、ユーモアの対象としてしか扱われていませんでした。
例えば、ミルトン・カーデューがロンドンの路上で生意気な若い荷物持ちに悪態をつかれたとき、彼は何も考えずに彼女のスカートを持ち上げて、音を立てて鞭打ちをしても何の問題もありませんでした。
これは今日のように下着が一般になる以前の時代には、彼女の裸のお尻を意味していました。
おそらく、若い荷物持ちの友人たちが彼女を助けようと駆けつけたかもしれませんが、見物人たちはその光景を笑いながら楽しんでいたのだと思います。
確かに、18世紀においては、家の主が女性の尻を叩く特権を事実上持っていました。
それは、平手はもちろんのこと、白樺のバーチや革鞭など、主の決めたやり方で、好きに行うことができました。
その叩かれる「尻」は、メイドや成人した娘、あるいは妻など、様々で、彼女たちは法律上の手段を取ることはできなかったでしょう。
1790年代のあるパーティーでは、ある女性が、ハザード(当時流行していたカードゲーム)に飽きていたのか、賭けの対象として、「2スコアのストローク(=40打)白樺のバーチ」を賭けて楽しんだという記録が残っています。
真ん中の絵画は19世紀のものですが、この場面をよく再現しています。
また、下の絵のような服装が、このようなパーティーの進行を円滑に進めたのかもしれませんね(笑)。
バーレスク、尻叩き、そしてそのすべてのエンターテインメントについて
翻訳掲載いたします。
この記事は「A Voice in the Corner」に掲載されていたもので。
最近、不良娘、女子大生、劇場など様々なカルチャーにおける「尻叩き」の歴史を求めて、戦時中まで遡り、いくつかの不揃いの断片的な資料を漁りました。
例えば、最近テレビで放映された英国の劇場に関するドキュメンタリー番組で、たまたま「尻叩き」について言及されていました。
その中では、母性に溢れる大家さんが若い娘を母親代わりに「尻叩き」していたという逸話でした。
同じテーマでアメリカに関連したものもありました。
ジャズクラブと不良娘に関連した逸話でした。
ある新進気鋭のアーティストの母親は、娘の友人たちを何人か引き取って、家のルールを破ったり、劇場からの帰りが「1分でも遅れた」場合には、お仕置きをしていたという話でした。
次に詳細は不明ですが、父と娘のふりをした夫と妻の演技についての記述もありました。
彼らの演技には、パドルや尻叩きのシーンがあったようです。
しかし、その過程で、バーレスクの古典的な尻叩きも発見しました。
それは、Singing Hill、Cowcatcher's Daughter、Betty Page、Fabulous Fannyなどの有名な演技や写真、映画でした。
もうひとつの珍品は、サリー・ランドと彼女のヌード牧場です。
サリー・ランドのヌード牧場は、1939年に開催されたトレジャー・アイランド万国博覧会の入り口にありました。
写真を見ればわかるように、当時としてはかなり大胆な構図で、これらの写真でもわかるようにカウガールに扮した女優たちが胸と尻を丸出しにして乗馬をしたり、遊んだりしています。
その中で「尻叩き」が行われたかどうかはわかりませんが、彼女のこの試みは「Cowcatcher's Daughter」の伝統ときちんと踏まえていました。
サリー・ランドはただのお馬鹿な美人さんではありませんでした。
彼女は大きな風船の中で裸で踊ることを思いつきました。しかし、そのための技術が見つからなかったため、彼女はそのための研究に資金を提供しました。
しかし、透明な風船の中で裸で踊ることは当時としては、流石にやりすぎでした。
1935〜36年の冬、サンディエゴで開催されたカリフォルニア太平洋博覧会では、舞台上で踊っていた彼女に対して、観客から小石を投げられました。
怪我をしていたにもかかわらず、彼女は一旦降壇し、風船の替わりに扇子を持って演技を続けたのです。
サリーや性扇情的な試みをした人々は、文字通り歴史からその名は抹殺されてしまいました。
それらは、際どいエンターテイメントの一部に過ぎないかもしれません。
歴史に埋没したエンターテイメントには、まだまだ「尻叩き」の表現があるかもしれません。
劇場での「尻叩き」
翻訳掲載いたします。
この記事「A Voice in the Corner」に掲載されていたもので。
「尻叩き」は、舞台芸術の中でも最も一般的なものです。
1920年代から30年代にかけてのロンドンの舞台は、劇中に「尻叩き」のシーンで溢れかえっていました。
今日でも多くの前衛的な作品(例えばシェイクスピアの尻叩きなど)には、注目を集めるために「尻叩き」のシーンが含まれています。
これには理由があるかもしれません。
19世紀には(世紀を見る人にとっては、それが慎重さを美徳とした最後の一歩手前の時代のことです)、「尻叩き」はしばしば演劇の古典的な見せ場の一つでした。
映画や舞台では「尻叩き」がセックスの代用品として使われていたことが多く書かれていますが、当時は「尻叩き」のための木の棒が「尻餅」と同じように演劇の古典的な見せ場の一つとして用いられていたのかもしれません。
クラッパー・スティックとは、軽量の木片を2本使ったもので、「尻叩き」に使うと軽い叩き方にも関わらず、大きな音がしました。でも痛くはなかったようです。
どうやら、ドルリー・レーンにあるいくつかの演劇では、コーラスガールの非公式な躾として「尻叩き」にこの木の棒が使われていたようです。
例えば、リハーサルに遅刻した女の子を呼び出して、みんなの前で監督の膝の上に乗せて「尻叩き」をしてもらうという悪ふざけがありました。
女の子は、これがただの恥ずかしい「お仕置きごっこ」だったのか、それとも木の棒をより頑丈で痛みを伴うパドルに代えられて、行われたのかは、わかりません。
また、演奏中には、ジョークや、あるいは演者やコーラスガールの尻を叩いて一列に戻すために、しばしばこの木の棒が用いられたようです。
1950年代のコーラスガールの一人が回顧録『シアターデイズ』の中で回想しています。
「私たちがやっていたちょっとした寸劇では、みんなが一人ずつ隣の人の方を向いてお尻を振りながら踊るというものがあったのを覚えているわ。でも、私は列の端っこにいたので、最後に屈んでお尻を突き出し、お尻を叩かれなければならなかったのよ。その後、私はびっくりして飛び上がることになっていたんだけど、私はその時、間違って主役の男性の顔を平手打ちしてしまったのよ。」
「拍手喝采が起こったので、これは大成功したわ。ただ、このシーンが大好評だったので、このシーンの最後に顔を打たれた主役の男性が私を捕まえて、膝に乗せてお仕置きをする場面が追加されてしまったの。それは木の棒で私のお尻と叩くというものだったのよ。この演技は好評で毎晩行われたわ。そして最後の夜を迎えたの。最後の夜は千秋楽ということで、今まで悪戯をしてきたいけない私をお客様の前でしっかりとお仕置きするために、木の棒じゃなくて、パドルで打たれることになっていたのよ。だから私は一計を案じて『よし、今日こそは』と、タイツのお尻ところにパッドを入れたのよ。」
「私が彼の膝に身をかがめ、お尻を叩かれると、いつものような大きな音ではなく、鈍い音がしたのね。 それを聞いた主役の男性は、パドルを使わず、手で私のお尻を叩き始めたの。すると当然、彼は私のお尻にパットが入っていることに気づいたわ。『それ見た事か!』と満足げに笑う彼は、パッドの中綿を弄り出し、私のタイツのお尻からピエロ風に引っ張り出すというコメディを披露して、客を喜ばせたわ。もちろんこのアドリブに演者も大喜びよ。そして、とうとうパッドは中綿はなくなってしまったの。彼はパドルは使わなかったものの、お客の前で私の薄くなったタイツのお尻を、不正をしたお仕置きも兼ねて、たっぷりと平手で叩いたのよ。彼の平手打ちはとってもいい音がして、それににとっても痛かったわ。 私の叫び声は劇場中に大きく響き渡って、叩かれるたびに歪む私の顔とお客様に向けられた踊るお尻は見応えがあっと思うわ。舞台上で行われたリアルなお仕置きにお客様も大喜びよ。でも何日も座れなかったわ。」
カナダの尻叩き哲学
珍しい記事があったので、翻訳掲載いたします。
この記事は、「A Voice in the Corner」に掲載されていたもので。
このソースは、「カナダの野生の東」と題された、WOODSHED REMISINECencesの投稿から引用です。
舞台は1920年代から30年代のノバスコシア州の「家族農場のコミューン」。写真はイメージです。
「これらの時代は厳しい時代で、マナーを守らない場合には厳しい罰がありました。今では、若い男性に尻叩きをすることはあるかもしれませんが、それでもそれは恨みの種になってしまうこともあります。当時、12歳以上の少年たちは、他の未婚の女性たちと一緒に寝床に移され、男としてのあり方を学ぶことになっていました。女性たちは、乱暴な扱いを受けることが多かったよのですが、唯一の制裁は、乱暴が過ぎた悪戯者には、体の大きさに合わせた木の枝の束を背中に背負って、膝をついて大きな老木まで歩かせることでした。男たちの膝は大量に出血したそうです。」
「一方、女性の場合は別問題でした。当時は、未婚の女性や妻には、革鞭か杖笞の罰がありました。痛みによって覚えさせるというよりは、普段は隠している尻を裸にして与えることで、恥ずかしさによって覚えさせるということに重きが置かれていたようです。」
「大抵の場合、女性は、薪小屋に連れて行かれ可能な限り裸にされていました。 私が18歳か19歳の時、私たち姉妹にとって、日曜日に教会へ行った後はお仕置きの時間でした。帰ってくるとすぐに、母は私たちの服を脱がせました。私たちは動きにくいのでキャミソールを着ていませんでした。だからすぐにお尻は丸出しになりました。それから、大抵の場合は、ポーチの上で頭に両手を乗せ、下着なしでお尻を丸出しにして過ごすことになりました。他に周りに男性がいた場合には、炊事場で壁に向かって素っ裸で立たされることもありました。 だから、人前で裸にされることにはそれ程抵抗はありませんでした。ただ、お尻を鞭で打たれるのを見なられるのはとても恥ずかしかったです。」
「これは結婚するまで続きました。 マナーを守らせるため、母に鞭で躾けられた私は、今でも鞭の躾は必要だと考えています。兄弟がいなくても恥ずかしかったけど、いい教訓になりますし、自分の娘にも母と同じように鞭を使っています。」
「でも、時折、母が使う革鞭は厳しすぎて、座っていられないこともありました。 自分の娘を持つようになってからは、杖笞の方を好んで使いました。一度や二度は革鞭を使ったことはあったけれど、いくらマナーの悪いお転婆娘たちが憎たらしいほど大きなお尻をしていても、馬の尻を叩くみたいに革鞭で叩いては躾にならないですもの。杖笞で時間をかけて反省させるのが一番だと考えています。」
「当時、鞭の恩恵を受けなかった女はいなかったし、彼女たちは恨みもありません。- 今となっては残酷だったと思われるかもしれませんけど。」
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