尻叩きの簡単な歴史
ネット上に面白い記事があったので以下紹介いたします。
最近、あるフォーラムで、尻叩きやBDSMへの関心は、1950年代に出現し、1960年代の寛容な社会になってから受け入れられるようになったのではないか、という意見がありました。
確かに20世紀までは、「尻叩き」は一般的な性嗜好の形態とは考えられていなかったかもしれません。
しかし、「尻叩き」「鞭打ち」への性的な関心は長い歴史を持っていると言えるでしょう。
そしてそれは、その時代にふさわしい健全なものとして、偽装されていたのかもしれません。
例えば、古代エジプトでは、妻の乳房を叩くことは、それに値する場合を除いて禁じられていました。
しかし、尻を叩くことは神聖な義務であり、当然ながら彼女の人生の糧となると考えられていました。
エジプト人にはイシスというカルト宗教の教団がありました。
これは、神殿で女性を鞭打つことで神々を称えるという教義に基づいていました。
妻や娘、奴隷の女も、神々への畏敬を表すために、夫や母親、主人から鞭で打たれることを望んでいました。
鞭で打たれないことは不名誉なことだと考えられていたのかもしれません。
イシスの崇拝は後に古代ローマにも伝わり、元老院議員の妻たちは「宗教的なパーティー」において、神々を称えるために鞭で打たれました。
ローマ人自身も、独自の宗教的な鞭打ちの習慣を持っていました。
古代ローマの牧歌的な祭りである「ルペルカリア」では、2月に悪霊を追い出し、街を浄化して健康と豊穣をもたらすために女性が鞭打たれました。
ローマ人の間では女性の「尻を叩くこと」は妊娠を促すと信じられていたので、「尻を叩くこと」は豊穣を促すという意味でも最も重要な事柄でした。
若い女性は神殿に連れて行かれ、公衆の面前で尻を叩かれることで、妊娠しやすい体になると考えられていたのです。
旧共和国の時代には、結婚前の花嫁の母親が日常的に行っていました。
花嫁は母親に付き添われて神殿に行き、神々に捧げ物をして巫女の祝福を受けた後、母親の膝の上に乗せられ、平手の尻を叩かれるか、あるいは房鞭で激しく叩かれました。
女性の尻を叩くと妊娠しやすくなるということが深く浸透していたため、あるローマの将軍は同僚に「娘への鞭を惜しまないよう。」に注進したと言います。
ティベリウス自身も、元老院議員の妻や娘たちを淫らなパーティーに呼ぶときには、この言葉を正当化のために用いていました。
ビクトリア朝時代に征服者と呼ばれた「ウィリアム・ザ・バスタード」も、妻のマトリダと健全な尻叩きを楽しんでいたと言われています。
マトリダは、父親がウィルアムとの婚約を勝手に決めてきたことに腹を立て、「自分は非嫡出子と結婚するにはもったいない。」と抗議まし、彼との結婚を拒否したと言われています。
そのことを聞き付けたウィリアムは、彼女の家に乗り込んで、部下や近所の人たちの前でお仕置きをしたと言われています。
その後、彼は婚約を破棄することに同意しました。
しかし、彼女は「こんな強い男性と結婚できるなんて、女にとってこれほどの幸せはない。」と言って結婚を望むようになっていました。
言い伝えによれば、結婚後、彼は必要に応じて彼女の尻を叩いたそうです。
そして、彼女はそれに対して、いつも素直に尻を差し出したと言われています。
1533年から1589年の間、フランスの王妃兼摂政であったカトリーヌ・ド・メディチは、自分のメイドたちを厳しく躾けたと言われています。
彼女はメイドたち集め、裸にして、自分の楽しみのために尻を叩いたと言われています。
また、彼女は、自分の残酷さを批判した貴族の娘たちを宮廷で、侍女の膝の上でお仕置きをしたと言われています。
他にも、彼女が気に入らない侍女を全て集めて、宮廷全員の前で尻を丸出しにして鞭打ちしたという話も残っています。
一方、イギリスでは、後にメアリー1世となる10代のメアリー王女が、継母アン・ブーリンの命令で尻を叩かれていました。
些細なことでも怒られ、使用人に尻を叩かれていたと言われています。
また、アン自身がメアリーを押さえつけて尻に革のスリッパでお仕置きしたという話もあります。
その数年後には、将来のイングランド女王となるレディ・ジェーン・グレイも、父親の指示のもと母親や家庭教師からお仕置きを受けていたと言われています。
これは、ヘレナ・ボナム=カーターが出演した映画でもよく描かれていますが、実際にはジェーンは数ヶ月にわたって尻を鞭打ちされたと伝わっています。
レディー・ジェーンに対するこの扱いは当時としては、何も不思議なことではありませんでした。
当時、良家の女性はよく鞭で打たれました。
テューダー朝の紳士淑女の鞭打ちは、通常、長い回廊で行われました。
長い回廊とは、文字どおり、広くて長い廊下のような空間で、先祖の肖像画が飾られている部屋でした。
先祖の肖像画は不愉快そうに不届き者見下ろしていました。
不届者は先祖に対して、尻を見せながら、悔いを改めたのです。
しかし、家庭内規律に最も厳しかったのはロシア人でした。
進歩的なツァーリであるピョートル大帝(1672-1725)の治世でも、女性の尻は安全ではありませんでした。
ピョートルは「専制的な土地所有者に「鞭」による恣意的な支配」を推奨していました。
また、彼は最愛の妻エカテリーナを鞭打っていたと言われています。
彼女がそれをどう思っていたかは定かではありませんが、当時のロシアでは何世紀にもわたってごく普通に行われていました。
当時、10代の娘は父親の選んだ相手と結婚するのが普通の習慣でした。
その方法として、父親は娘を連れてきて、夫となる者を紹介します。
そして、父親は軽い鞭打ちを、時にはそうでない鞭打ちを行いました。
当然その鞭は娘の尻に与えられ、鞭打ちが終わると、その鞭を将来の夫に手渡しました。
ロシア正教会は、夫が妻を叩いて躾けることを公認し、奨励していました。
また、妻も鞭打たれることを期待していました。
もしそうでない場合は弱い夫だと考えられ、恥ずかしいことだとされました。
1556年にシルベスターという修道士が書いた『家事の掟』という結婚マニュアルでは、夫の言うことを聞かない妻は鞭で打たれるべきだと記述しています。
これは、女性の夫への服従についての厳しいルールを定めたもので、服従と忠誠を規定していました。
ロシアの法律では、不貞を働いた妻は首まで埋められて死ぬことになっていました。
18世紀のロシアでは、後に皇帝となる女帝エカテリーナが、夫の大好きなおもちゃの兵隊に穴をあける悪戯をしたときに、「軍務規律」に違反したとという罪で、多くの兵隊の前で夫から鞭で尻を打たれたと言われています。
数年後、恋人のマモノフが駆け落ちして16歳の女性と結婚したとき、エカテリーナは激怒しました。
エカテリーナは、女性に扮した秘密警察を派遣して2人を追跡させ、捕らえた少女を鞭を打たせたと言われています。
19世紀までのイギリス諸島では、親指よりも太くない杖であれば、妻を打ってもよいとされていました。
このことはよく知られていますが、サーク島でこの法律が廃止されたのは21世紀に入ってからであることはあまり知られていません。
上記のすべてが楽しい出来事ではなかったでしょう。しかしながら、4千年以上の歴史の中で、誰かが楽しんだことがあるはずです。
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